かかしとゲンロクの水
「見ないでください……お願いです、見ないでください……こんな事故に遭うのなら、もっとセンスのいい下着を着てくればよかったです……。寒いのがいけないんです! 冷え症がいけないんです……うううぅ。向こうへ行ってくださいぃぃぃ」
俺は沈黙した。少女の心は折れかけている。たいへんだ、励まさなくては。
「毛糸のパンツはパンツに入らない! 体操着のハーフパンツと同じ扱いに決まっている! なんならこの俺の命をかけてもいい!」
「ほ……本当ですか?」
「さあ、助けてくださいオズヌ様と言え!」
「あの……助けて……助けて下さい――。オズヌ様……」
上からか細い声がする。
「待っていろ、今――行く」
俺は非常階段を駆け上った。外はもう薄暗く……月が天高く輝く。
俺はその明かりを頼りにコンクリートから少女を引っこ抜いた。
女の子を収穫するなんて初めての経験だ。ありえない状況だ。
またお化けの陰謀かもしれない。あいつらのいたずらかもしれない。
奴等が一般人まで巻きこむようになるなんて思わなかった。
最悪だ。もっと徹底的に倒しておかなくてはならなかったのに。
少女は悲しそうに泣いていた。
「君、どうしてこんな所に?」
「それが……月がとてもきれいだったので舞い上がってしまって……ごめんなさい」
俺は壊顔した。たまには女の子の空想と冗談に付き合うのも悪くない。
「空から降ってきたみたいだな」
「そ……そんなわけありません……すいません」
中学生くらいの女の子は恥ずかしいのか顔を隠した。ぶるぶる震えている。
「とりあえず後で弁償と補償をしてくれればうちはそれで……」
懐中電燈に照らしだされた女の子は傷だらけだった。俺は慌てた。
「大丈夫か、いま薬箱を持ってきて……」
彼女は顔を上げ、俺は叫びそうになった。その顔は知っている顔だった。
懐中電燈が落ちる。
彼女の顔は火佐賀屋久乃さんもとい、火佐賀屋様にそっくりだった。
年こそ幼いが、火佐賀屋家のDNAそのものだった。もしや妹か?
帽子を押さえてぶるぶる怯えている。知らずに引っこ抜いてしまった。
恐い……石包丁で全身永久脱毛させられるかもしれない。
逃げようとした俺を彼女はわらのように掴んだ。青白い指先が力なく、けれど俺を放さない。
物凄い力だ。
「……私……かかし……かかしです……」
「あ……俺は縁野コカド。渾名はオズヌだ」
彼女は恥ずかしいのか両手で顔を隠した。指の隙間から俺を見る。
恥ずかしいみたいだ。変な子だ。変な子が来たぞ!
女の子はじっと俺を見る。
「じゃあ……貴方が伝説の英雄、オズヌさんですか!?」
「伝説の英雄? そんな人は知らないけど」
「そんなはずはありません。この本にも書いてあります。『役小角の魔法使いかもしれない』」
少女は息を吸い込むと僕の両手を握りしめた。顔面が真っ赤で目は輝いている。
「お願いです……オズヌさん、私に魔法を教えてください!」
「え?」
「お願いします! 必要なんです! どうしても!」
俺はどうしていいかわからずに彼女の指を握りしめて途方にくれた。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
おんぼろマンションの三階、夕食のスープを鍋から拝借する。
それもこれも、隣の部屋に存在する火佐賀屋様そっくりの少女のためだ。
黒さんはうなずく。
「えへへ。坊ちゃま、また、犬ネコでも拾ったのですか? 経済力とやらが減ると噂の火佐賀屋様にいじめられませんか? 黒は心配ですよ」
黒さん、相手はその火佐賀屋様の親戚かもしれないんだ……。
「俺はね、幸せに平和に暮らしたいんだよ。火佐賀屋様、いつか俺にひざまずけ!」
「凄いです。様をつけるなんて、坊ちゃまの精神が既にひざまずいていらっしゃいます!」
「今はこれが精一杯!」
「なんて謙虚。いつか倒すのですね。かしこまりました。坊ちゃまは立派です」
黒さんは感動して泣いた。黒さん今日も可愛い。
世の中、平和が一番だ。そこの所は間違いなく、間違いがないのだ。
「坊ちゃま。わたくしはあなたのご両親から貴方の身の回りのお世話を頼まれております。ですからどうかお体は大切に……お願いいたします」
「慰めはいいよ。ウチの両親は放任主義だから」
「お気に障られましたか?」
「ああ、いいよ、いいよ。気にしてないから」
俺の両親は子供が苦手で、俺とどう接していいのかわからなかったそうだ。
一緒に暮らしていたおじいが東京に行って一人暮らしも最初は楽しかったが、そのうち飽きた。そこにボロボロの黒さんがやって来た。貴方の両親に頼まれて、貴方を救うためにゲンロクからやってきたのですと言われた。
鵜呑みにしたわけじゃないが、その気遣いが面白くて……嬉しかった。
だから今はおじいのようにこの町を徘徊して騎士のマネ事をしている。
誰かの為に何かが出来たら嬉しいのだと思ってみる。
「坊ちゃま、三階の天井が壊れたみたいなのですが。修繕なさいますか?」
「ああ、俺が行こう。それから直している間は覗かないでくれ」
「もしや坊ちゃまの恩返しですか? 黒はお礼などいりません! ですからどうかご自分の毛をむしらないでください!」
「心配性だな。俺は自分の毛をむしったりはしないよ。どうして最近、毛の事ばかり言われるんだろう」
その言葉を聞くと黒さんは柔らかい笑顔を見せた。
「坊ちゃま、今日のお夜食はどういたしましょう」
「キューイフルーツソースを使って何か出来ないか?」
「かしこまりました。ブラマンジェにいたしましょう。おいしいブランデーがあるのです」
「ブランデーか」
「えへへ。火にかければアルコールなどほとんど飛んでしまいます。風味だけですよ」
いつもの会話を繰り広げながら思う。かかしの話はまたにしよう。かかしもそのまま、家に帰りたかったりするかもしれない。事態が大きくなるのを嫌がるかもしれない。
俺は黒さんの作ってくれたフルーツカスタードサンドとお肉ほろほろシチューを手に着替え室のドアをノックした。中は静かだ。思い詰めていないといいが。
お化けに会うなんてきっと大変なことだから。
しかし、もう一つの可能性が脳裏に浮かぶ。もしや自傷か?
なんで思い当たらなかった。
知らないボロマンションの屋上に上がってすることなんて一つしか!
「死ぬな、かかし! 金がないなら、屋根を一緒に直そう……二人なら協力してきっと成し遂げる事が!」
扉が嫌な音を立てた。扉の向こうは水で満たされていた。何だ、これは。
大量の水が俺に向かって流れてきた。覆水不返と言うが、この場合にも使えるだろうか?
流されてマンションの手すりに頭をぶつけて俺はしばらくほおけた。
不用意に扉を開けた事を後悔しても遅かった。後頭部が酷く痛む。
「ぐ。イタタ」
廊下に倒れ、勢いよくなだれてくる水を思い切り吸い込んで驚いた。
苦しくない。水の中でも呼吸が出来る? これはどこの公的環境水だ?
「あ……」
俺が部屋に入ってドアを閉めると、彼女は上から流れてくる水の上に浮いていた。クッションを抱いてクルクル回っている。
「温かくって……気持ちいい。不思議だね。これはオズヌさんの魔法なんですか?」
「全力で違う……」
「残念ですね……オズヌさんの魔法だったら、かかしは嬉しかったのにな」
清楚で柔らかい顔が陰る。かかしは火佐賀屋と違って裏表のない子だった。
「それよりこれはどうなっているんだ? お化けの仕業か!」
眉間にしわを寄せると、かかしが俺の態度にびくりと身を震わせた。
顔を隠してガタガタ震え始める。
「……オズヌさん怒らないで……。水が、水がいきなり上から降ってきたんだよ」
俺はかかしの肩を掴んだ。
「大丈夫だ。隣の部屋に移るんだ。タオル持って来るから心配しないでくれ! それから、怒ってないよ。君を心配しただけだ。魔法なんてここにはないから平気だ」
「魔法……ないの?」
彼女は身を縮めると心底、悲しそうな顔をした。嗚咽をあげて泣く。
俺が泣かせたみたいだ。どうしていいか皆目見当もつかなかった。
困ったのでスプーンを手に取った。
思い返すと俺も馬鹿だったと思う。でもその時はそれが最良の策に思えたのだ。
俺は手に持っていたスプーンに触れた。指を添えたスプーンの首が曲がる。
「どうだ!」
「……オズヌさん! それが魔法です!」
かかしは俺の腕にしがみついた。
「オズヌさあぁぁん!」
二人で倒れるように流れてくる水に沈みこんだ。かかしは俺にすがりつく。
小動物のように頭をこすりつける。女の子に懐かれるなんて初めてだ。
恥ずかしいので思わず視線を泳がせた。
奇跡的に皿の上に残っていた食べ物をさしだす。
「た……食べないか?」
「ありがとうございます……実はお腹が空いていたんです」
俺はシチューを持ってきた事を後悔した。シチューの中身は半分水中に浮かびあがっていた。彼女はクリーム色に染まった水中をもぐもぐ飲み干した……。
「うん。おいしい。美味しいね、オズヌさん」
「ちょっと待て! 腹壊すぞ。こんなわからない水を飲んだら食中毒になるぞ! トイレと戦友になれるぞ! やめろ。やめるんだ! 出しなさい!」
俺は大混乱だったが、かかしは曲がったスプーンでシチューを平らげて見せた。
「少し薄味だね」
彼女は純真なのに混沌としている。それが第一印象だった。
この水、一体何なんだろう? とか、飲んで大丈夫なの? などの基本的な疑問と理念を持っていて欲しかった。警戒心がなさすぎる! もしもこの中に何かの毒物がまぎれていたらどうするんだ。うっかりじゃ済まされないぞ!
見た目も中身も可愛いけれど……火佐賀屋様とは別の意味で危ない女だ。
ほっとくと危ない女だ――。火佐賀屋様は毒だけど、こっちは危険物だ。
雰囲気は可愛いけれど底知れないぬかるみを踏みしめたように感じた。
「ところでこの水……雨じゃないな」
【ゲンロクの雨は洪水を起こしても人は死なない】と以前、黒さんが言っていたような。
「それがね……この水は上から降ってきたの。嵐が来たのかな?」
ゲンロクの雨。お化け杉が現在――この街のどこかに出現しているというのか?
「見てくる。それからこれ以上……訳のわからないモノを口にするなよ。いいな」
俺は飛ぶように屋上にかけあがって絶句した。
屋上のタンクが強風で横倒しになっていた。そこから染み出した水が壊れたコンクリートのひび割れに吸い込まれて消えていく。それを押さえる人物が一人。
「えいぃ!」
黒さんはただ一人、強風と戦っていた。
「タンクよ、動かないでください。大人しくしてください! はあっ」
黒さんは拳を埋めて、風に吹かれるタンクの動きを止めた。そこから水が溢れる。
屋上大惨事……。