ゲンロクの騎士
生温い布団の中で俺は目覚めた。じわりと寝汗をかいていた。
「……夢の中でもドロシーには会えないのか」
しかたがないので布団をかぶって二度寝しようとした。
携帯がクラッシックを奏でる。布団の中で鳴り続ける目覚ましを黙らせて起き上る。
「もうこんな時間か……」
黒さんによると今週の俺は運勢が良くないそうだ。
テストの点に一喜一憂し、友人とのおしゃべりで心を癒す。
平平凡凡、凡俗。そんな中学生だった俺が――三年前、本当のお化けに出会った。
「運が悪かったとは思わない。『幽鬼』……町を飲み干す怪物。大くじら座の化け物。この町の空から来るお化けの襲来に見舞われた。脳にはシナプスがある。脳細胞と脳細胞をつなぐ神経細胞の接合部、そこをごっそり持っていかれた。結果……自分の意志が滑り落ち、生ける屍、身体を引きずって歩く人間。徘徊者。それになった。事件の何もかもが終わって、普通の人間に戻って我に返った。成績は落ちたし、記憶は欠落していた。日常記憶は残っていたものの、中学時代の思い出はほとんど消えていた。隣にいる友達の事すら思い出せなくなっていた。この人は誰なんだろう。大勢の知らない人たちと一緒にいる恐怖と笑顔で話しかけてくる友人に対する罪悪感。そんな自分に戸惑いを隠せず、俺は遠く離れた街の高校生になった。もう二度と仲間を作らない。友達も作らない。学校に通うのはただの義務にしよう。だから走るのをやめた。歩くことにした。歩くことは生きる事である。生きて、生きて、助けてくれた人たちに恩を返す」
そんな俺の所にやって来たのが……お化けを倒せる着物メイドの黒さんだった。
「その黒さんに出会って、僕の心は溶かし出され、元の人恋しい少年に戻ったのだった。今の僕は友達を作りたくてうずうずしている」
週末のラッキー星占いランキングは既に一位まで読みあげられていた。
テレビの画面の向こうから明るいアナウンサーのお姉さんの声が響く。
「占いなんて未だに信じられないんだが」
俺はテレビ画面の星占いを眺めた。アナウンサーが画面を指さす。
『おはようございます占いです。今週の最下位は射て座です☆ 洗顔、洗顔。アブラ虫扱いされちゃう。今月のラッキーアイテムはハンバーグです☆』
静かなおんぼろマンション。俺は暗い部屋に鎮座する。
アブラ虫扱いって凄い事を言う人だな。初めて聞いたぞ。
『異性に気をつけて☆』
俺は今月の星占いの本を静かに閉じた。四柱推命、血液、星占い、タロット占い。
これらを総合した結果、俺の明日はどっちにもない……なぜなら。
ここテレビ局の週末占いは気持ち悪いくらい良く当たる事で有名なのだから。
「地球上には男と女しかいないのに……確実に被害に遭うこと間違いなしじゃないか」
そして何よりもここが一番の問題だった。
「ラッキーアイテムのハンバーグは食べるべきなのか、そのレトルトパックを常時装備せよと言う意味なのか。占いごときに人生を左右されるようになるなんてため息が出るな」
一週間占いを見ながら穏やかに我を見失いそうになった。正直、占いと国語と英語は苦手だ。答えなど物事の側面にすぎない。そこを読み取る作業が苦手なのだ。
占いの本についていた付属のタロットカードを放り投げた。相手の本心が読めたらいい、そう思ったことはあるけれど、思うだけだ。
「ま、そうなったら、世界は大混乱になるだろうね。間違いないよ」
カップの底のカフェモカを飲み干す。世の中にこうして悩んでいる人間が他にいるかもしれない。液晶の向こうでは先程のニュースのお姉さん、虎乃アナウンサーが優しい笑顔で明日の天気予報を読んでいる。
「明日は晴れたり、曇ったり、雨が降ったりしますから気をつけてくださいね!」
全部盛り込まれていた。
「この人はいつでも明るくて幸せそうだ。実際の所、幸福なのだろう。近々結婚すると言っていたし。馬鹿な女子アナが増えたと世間様は言うけれど、彼女はどこの誰よりも穏やかだった。優しい笑顔はそれだけで、その人の生きざまをにじませている。だから顔や足に惚れる人がいてもそれは当然だと思う。それが仮面でも、うわべでも、その人の一部を指し示している事に変わりはないのだから」
夜の十一時。いつもの時間。うまい水を飲み、私服にそでを通し、身支度を整える。
「では見廻りに言ってくるよ。黒さん」
彼女は冷房のきいた台所で気持ちよさそうに寝ている。俺は彼女に薄手の上着をかけた。
「そんな格好で寝ていると風邪ひくから。俺の分まで寝てくれ。君ならそれが出来そうな気がするよ」
「えへへ。かしこまりました……無敵艦隊に乗った気持ちでお任せください……」
少し頭を持ち上げた和風メイド、黒さんは穏やかに寝言を呟く。
「黒さんはおおらかで一緒にいると楽しい人だ。僕はこの人にしか心を開けない」
お化け杉を世に出さないために。と……それが、黒さんにささげる表向きの理由。裏の理由はコンビニで新作スイーツを楽しむためでもある。
「恥ずかしい趣味なので、この時間にしか行えない。甘いモノ好きの男子が世間に増えた所で、やはり他人の視線は気になるものなのだ。メイドはいるけど、友達のいない俺の娯楽はコンビニの食べ歩きだ。トゲを洗って待っていろ。今日発売の和栗モンブラン」
勢いよくマンションの敷地から出てすぐに前面を強打した。目の前に黒い壁があった。
生温い生き物の感触。剛毛の触れる感覚。生臭い香り。
隙間の時間に現れる不可思議な存在が目の前にいた。
ビルのように黒い大きな物体が進路をふさいでいた。身体中――毛だらけだった。
黒い物体はぐちぎちと歯を鳴らした。その吐息だけで身体中の骨が軋み吹き飛びそうだ。
化け物。お化け。そう言う概念が一番近いと思う。お化けは歯ぐきを剥きだした。
「いいいいいい、食いたい……お前の心臓を食いたい……食わせろぉぉぉおおおおおおぉ」
「痛いのは嫌だから、勘弁してよ。全力でいく! 問答は無用だ。意思の疎通は何度も試みたけど、彼らは耳を貸さない」
自分の想いだけを押しつけてくる存在。だから会話は成立しない。
地面を蹴る。俺は十五メートルジャンプしてお化けの顔面に強烈な踵落としを決めた。
ぶぶぶぶぶ。お化けは黒い血を撒いて砕け散る。
家の前が真っ黒に染まった。俺は地面に手を突き、息を切らす。アスファルトに身を折り、思わず呟く。
「今日も勝てた。ありがとう山神様、ありがとう水神様、そしてありがとう、黒さん」
子どもの頃、お化けたちは俺を遠目で見ているだけだったけれど、最近ではこうして向こうから訪ねてきたりするので、かなり迷惑している。むしろ、迷惑しかしていない。
お化けを倒せる力、『破砕の感覚』。元々これは黒さんの力だったのだが、女の子だけを戦わせるのも可哀想なので俺が貰った。と言えば聞こえはいいが、本当は黒さんから奪ったんだよな。可哀想だったから。お化けはそれ以来――俺と黒さんを執拗に狙う。いつ力が無くなるかもわからない力なので毎日、心臓に悪い戦いを繰り広げ続けている。
僕の攻撃は拙い。最初の頃より少し形になって来たけれど飛びぬけて戦闘が上手なわけでもない。それが悩みだ。近所の子供たちはお化けの血で染まったうちの小さなマンションを『黒い家』と呼んで探検をしたがり、大人は誰も入居せず、ペンキをぬり替えた事も数限りない。黒い家はやはり黒い家なのだ。
「さて」
俺は顔を引き締めた。ここからは俺だけの仕事だ。もはや習慣と言ってもいい。
『近年、この町にはお化け杉が現れるそうだ。
そしてお化け杉は子供たちを連れていってしまうのだそうだ。
もしもお化け杉を見てしまったら決して振り返ってはいけない。
ノドグロの大群が現れてゲンロクの森に連れて行かれてしまうよ』
母さんの妹……つまり俺の叔母さんであるところの――阿倍野小路御路異は変人民俗学者だった。地方の物語を本にして出版していた。
「名前はおみち。渾名はおじい。本人は酷く嫌がったが、渾名の方が呼びやすいのでみんな親しみをこめておじいと呼ぶので本人もあきらめ気味だった。その御路異がこの土地を選んだ。小京都と呼ばれるこの盆地を。おじいは俺に……自分は心理分析官――ゲンロクの騎士だと名乗った。ゲンロクの騎士。山に囲まれたこの土地では……悪意が溜まって抜ける場所がないのだそうで、おじいは夜になるといつもこの街の見回りをしていた。そして、見回りの最後にゲンロク井戸の栓を抜くのだ。そしてその井戸からどこかへ悪意を流すのだと言う」
井戸への道を静かに歩く。
「子供の頃、おじいに手を引かれて何度この道を歩いたかわからない。ただあの井戸の底に眠っていたお祭りの屋台の赤ちょうちんと、江戸時代風の建物、ホタルの飛び交う、あの夢のような風景が忘れられずに今もこうしてさまよっている。おやおや長い独り言だ」
習慣として始めた俺の見回りも、今ではライフワークの一つだ。
黒さんが力を失ったので、現状、この町でお化けと戦える人員は俺しかいない。
十日で両手いっぱいのお化けと戦うという生活を送っている。
故に本当はどんなに欲しくても友達など作るわけにもいかなくなったのだ。
嘘から出た誠か……瓢箪から出た駒か……とにかく。
俺の肉体はお化けとの戦闘に特化している。お化けの黒い血で両手が汚れるのも慣れてしまった。その黒はイカスミのように心地よい。
「ただ一つだけ、俺には弱点らしい弱点がある。黒さんから継承した弱み。お化けには強いが、人間に対しては蟻よりも弱い。デコピンをされれば、たちくらみ、足を引っ掛けられれば面白いように転がる。人類最弱。ハイリスクハイリターン。ランクアップしたのか、ランクダウンしたのか良くわからない存在の俺はそんな奇妙な日々を過ごしていた。おじいと見た幻の街『ゲンロク』はもう世界から無くなってしまったのかもしれない。幻か」
そう思いながらコンビニに行くと俺の希望する和栗モンブランもこの世から消え失せていた。
「和栗だけが甘味じゃないさ」
俺は自分を誤魔化すようにコンビニで違う商品を購入し、そこの駐車場で口にした。
「やはりここのアップルレーズンケーキは最高だ。このケーキの旨さは俺の中で星、天の川だと思ってみる」
パティシエが女の子ならこの身を奉げて護ってあげたいくらいだ。
よし。黒さんにもこれを買って帰ろう。
きっといつものように柔らかい笑顔で美味しい紅茶を入れてくれる。
その時、女性のか細い悲鳴が聞こえた。思わず振り返る。
「まさか……ゲンロクが出て来たのというのか? もしもお化け杉なら、周りの人間を避難させなくては。ゲンロクにさらわれる。おじいがずっと行きたかった場所、ゲンロク。そこに行けば俺もおじいのように精神的にも肉体的にも強くなれるのだろうか? 友達が出来るのだろうか?」
しかし今はそんな場合などではなかった。
最後の一口を噛み砕きながら疾風迅雷のように走る。
視線の先、高校の制服を着た少女が大学生たちに絡まれていた。
俺と同じ学校の制服だ。化け物でもなければゲンロクも関係なかった。
普通のもめごとで、普通の小競り合いだった。
「やめてくださいっ」
片手を掴まれた少女の細いシルエットが影絵のように踊る。
少女は俺寄り身長が低く、制服からすらりと伸びた足は女神のように綺麗だった。
「よお、姉ちゃん。ぶつかっといて、わしらに何もないんか!」
「……すみません……ごめんなさい!」
少女はメンタルが弱いのか泣きそうになっている。
「すみませんで済んだら銀行はいらんのじゃ。財布の中身ばらまいて詫びいれろや!」
「……財布はありません。財布を持ってきていません……!」
悲痛な声に男たちの口もとがゆるむ。彼らは顔を見合わせていやらしく笑った。
「姉ちゃん、通帳持ってこいや。わしら家まで送ってやるけんのう」
耳障りな笑い声が響く。粋がる奴は加減を知らない。
俺は茂みを乗り越す。まともに戦えば勝ち目はない。気配を消す。存在感を消す。
ガラの悪そうな男たちの背後からそっと近づくと男たちの膝の裏を突いた。男たちの足がたやすく曲がり、二人ともバランスを崩す。よし。
「なんや、おどれ!」
酒も入っていたようだ。アスファルトに倒れた男たちが振り向く前に女の子の手を引き、一目散に逃げだした。
顔を覚えられてはいけない。走って、走って、奴等は追って来ない。俺たちは路地を曲がり、迷路のような路地と公園を抜け、やっと動きを止めた。苦しい。肩で息をする。
もう限界だ。肺がハチキレル。明るい街灯の下で立ち止まると、俺は目を疑った。
ここには似つかわしくない少女――品行方正、真面目な演劇少女がうずくまっていた。
「お寺のお嬢さんがなぜここに。火佐賀屋久乃さん……うちのクラスの副委員長?」
見覚えのある顔だと思えばクラスメートを助けてしまったのか。こんな事は初めてだ。
彼女とは一言も話した事はない。が……遠巻きに目にした事はある。
明るくて儚くて優しくて可憐……鈴蘭のようなみんなの憧れの存在がそこにいた。
「高校生演劇部の期待の星、どんな感情も、どんな思いも自分のモノに吸収して演じあげてしまう……天賦の才を持った少女。くっつけ屋。火佐賀屋さんは数限りなく友達が多い。クラスの中心人物だ。楽しい毎日を送っている火佐賀屋さんは――俺と対極的存在だ」
だからこそ不思議に思う。そんな人間が。
「火佐賀屋さん。こんな時間になにをしていたんだ?」
関わりあいたくなかった。しかし、久方ぶりに話す人間だ。
そんな好奇心さえ持たなければ、俺は今でも平穏な人生を送っていたかもしれない。
しかし、勿論そう思ったのは関わってしまった後なので、この時点ではどうしょうもなかったのだけれど。でもその時は本当にそう思ったのだ。
副委員長は顔を上げる。
「……人を捜していたんです」
学校で見せる顔とは違って少し緊張した顔で俺を見た。
複雑な事情があるようだ。俺は左手に握りしめていたコンビニの袋の中のブドウジュースを差し出した。
「これを飲んで落ちつこう。田舎の夜歩きはよくないから。この辺りは変なモノがうろつく」
副委員長は困ったように俺を見た。そして耳元に囁いた。
「キスがいいですか? 抱きしめて欲しいですか? 好きな方を選んでください」
火佐賀屋さんは最終警戒防御ラインを越えて踏みこむ。俺の両肩に彼女の指が絡まる。
清楚で奔放で小悪魔。この状態で足首を見せてくれたらトキメクかもしれない。
楽観的な観測はそこまでだった。次の瞬間――火佐賀屋の顔から一切の表情が無くなった。ゼロになった。凪の状態になった。口だけが歪に笑う。
「縁野くん。面白いように動揺しているのね。噂通り、女の子と付き合ったことが無いの? 夜中に徘徊する貴方を持てる限りの力で酷い目に会わせたいわ。二度と夜中に出歩けないようにその精神を痛めつけてあげる。えへへ」
彼女は御経のように呟くと僕の腕を掴むと反対にひねりあげた。
本物の実戦系の合気道。
肘が壊れそうだ。今の俺は人間に対して蟻のように貧弱なのに。脂汗が流れる。
「なんですか、その豹変は演技? ううぅ。火佐賀屋さん、俺に恨みでもあるのか?」
「あるわ。声をあげない方がいい。声をあげるともっとずっと痛くなるから。これでも私は常識人なの。私が悲鳴を上げたのはあの男たちを油断させ、成敗するためなんだからね。気をつけて。あの男たちは強すぎるわ。危険よ」
「そんな奴らに喧嘩を売るな。どこが常識人だ、非常識人だよ! と思ってみる」
「こんな時間に徘徊して、君は危ない人ね。先生につきだしてしまうおうかしら。出席番号3番、縁野小角くん。退学になりたくはないでしょう? そこまで残念にはなりたくないでしょう?」
姫のように可憐な少女は俺の背中に頬を押しあてた。さらに腕に力を込める。
「何を!」
彼女は人形のような目で俺を見下ろす。その言葉は棒読みで口だけが笑っている。
演技? それとも誰かのマネだろうか? それともこれが彼女の本心?
「俺の事を知っているのか?」
「黙らないと大切な口が悲鳴のオーケストラを奏でる事になるわよ。どうするの?」
「俺は音痴だから……へたくそなアリアにしかならないよ」
「物は試しね」
彼女が俺につきつけたのは石器時代の石包丁だった。その先は鈍くとがっている。
「……稲穂を刈り取る農機具で何をする気だ?」
「意外と冷静なのね。感心するわ。でもこの先冷静でいられるかしら」
彼女は俺の右袖をまくりあげた。冷たいクリームを塗り、石包丁を押し当てる。クリームの上を石包丁が滑る。ウエットティッシュでぬぐうと俺の腕はツルツルになった。
副委員長は満足げにうなずく。
「うん。これですっきりした。私の趣味は毛刈りなの。いい趣味でしょう。でも全身脱毛した私は毛刈りができないの。可哀想でしょう。えへへ」
「そんな馬鹿な」
「お礼なんてちょっとでいいから。縁野くん、この場でジャンプをして欲しいんだけど。いいかしら」
「それはどういった趣旨の質問だ?」
チャリン、チャリン。ポケットの中で先程のコンビニで貰ったお釣りの音がする。
「縁野くん、私はお礼にカフェモカが飲みたいわ」
「これは小銭じゃない、俺のレアメタルだ。名前を五百円玉という。渡せるものか!」
火佐賀屋は剣呑な視線で俺を見た。冷静な顔の下の方にある口だけが尊大に笑う。
「良い情報を教えてあげましょう。縁野くん。私の石包丁の使い方は天才的なの。きっといいお嫁さんになれるとクラスでも評判なの。だけど『うまいカフェモカを飲まないと手元が狂うかもしれない』と……うちの近所の羊毛刈りの先生も言っていたんだからね!」
何と言う事だ。
「嘘をつけ。俺の腕の毛は素直な直毛だぞ!」
「縁野くん、剛毛ではない所に好感度を覚えたわ。いいわね」
「その包丁さばき、いい嫁ではなく、いい毛刈り師の間違いだったようだな」
そう言えば。慌てて懐を確認する。
「さっきの騒動でラッキーアイテムの冷凍ハンバーグが無くなっていた。信じない、占いなんて信じない。けれど、これがアクシデントでないというなら何がアクシデントだというのか。火佐賀屋さんと出会ったのは完全なる突発事故ではないか。だとしたらこれこそが女難。徘徊してすみませんでした!」
「すみませんで済んだらウルトラアドベンチャーワールドペアチケットはこの世に二枚要らないのよ。縁野くんっ」
「そんな所に連れて行く経済力を同級生に求めないでほしい、副委員長」
「貴方の弱点は既にお見通しなのっ。毎日無駄遣いするからお金が貯まらないのね。毎朝、新聞配達でもしたらどう? きっとお金が貯まるわ。私をウルトラアドベンチャーに連れて行って。えへへ」
「だめだ。朝に弱い」
「雑魚なのね」
「夜に強い!」
「最強なのねっ!」
評価が跳ねあがった。副委員長は口を裂いて苦々しく笑った。
「君はミドリ虫に似ているわ。従順で獰猛ね。一筋縄ではいかないというの?」
「獰猛なのは君だ。ミドリ虫は役に立つ。今もどこかで世界の役に立っているはず。ラーメンとか抹茶ケーキに入っているはず。どこかの工場でエコプラスチックだって作っているはず。俺は縁の下の働き者だ……と思ってみる」
火佐賀屋さんは両手を広げた。
「縁野くん、世界で生き残るのは危機管理能力が発達したものだけなのよ。ただ前向きな人間は身を滅ぼすんだから。何十年も足元を見ていないからそうなるのよ。残念ねっ」
「俺の事を知っているのか?」
「知らないっ。貴方の気持ちをひっつけたの。それだけよ」
「副委員長、言っておくが俺は前向きな人間ではないと思ってみる」
「ふーん。縁野くんは後ろ向きに歩けるの?」
これが女難……。火佐賀屋さんは思ったのと違う人だった。姫だと思っていたのに。
残念な人だった。ショックを受けるな、俺。哀しいなんて嘘だ……。
「俺はコンビニの空気が好きなんだ。誰でも優しく向かい入れてくれる店員さんのあの明るさが好きなんだ。優しい蛍光灯。輝く笑顔。フルーツを乗せた高級ホロロンぷりん。それらすべてがあそこには備わっている。だから、あの場所は俺の天国なんだと思ってみる」
「天国は有料だったのねっ!『もったいないお化け』と、『もったいないマングース』に全身の毛をむしられるかもしれないわ。もっとよく考えて行動するのね」
「聞いたことないが――この街にはそんなのも居るのか? と思ってみる」
「子供の頃に私の兄が考えた生き物よ。獰猛だから気をつけて」
創造の賜物だった。火佐賀屋さんは俺を締め上げたまま、放さない。本気なのか冗談なのかもわからない。
「縁野くん、君が稼いだお金じゃないんでしょう?」
正論を言う彼女の目が冷ややかだった。そしてそのセリフはさっきから棒読みだった。
こんな所で肘を壊せば明日の夏期講習が大変な事になる。それにお化けに負けるかもしれない。関節が軋む。もはや考える猶予はない。腕を後に締めあげられた無理な体勢だが最終手段だ。土下座して謝る。それでうやむやに……。ダメだ。土下座が出来ない態勢だ。
もしすれば俺のひじに死あるのみ。副委員長は含み笑った。目は笑っていない。
「そんなくだらない事をする暇があるなら出歩いた理由を言えばいいのよ。えへへ。返答次第では三枚に下ろすだけで許すんだからねと思ってみる」
いきなり俺が長年使ってきた口癖『思ってみる』を盗まれた。
「俺の口癖に何をする。いくら君が悪人でも人を三枚に下せるものか」
「私、演劇でしか賞を貰ったことがないのよ。私服と下着と裸におろして貴方を警察に突き出すことぐらい怖くないんだよ。警視総監賞が貰えるかも。えへへ」
俺は小刻みに震えた。
「君は私利私欲で健全なクラスメートを犠牲にするような人なのか!」
「誤魔化さないで。縁野くんは女子のハーフパンツが大好きな人なんだよ。そんな人、誰が聞いても悪いに決まっているじゃない!」
「小学五年の写生大会で女の子の裸足を描きまくって職員室に呼ばれた過去があったような無かったような。そのスケッチが芸術的だったために展覧会に出品されて死ぬほど恥ずかしい思いをした事が忘れられない。みずみずしい感性と褒め称えられ、賞を総なめにしたが、あれが展示されている間の俺の気持ちは正直、針の上のムシロ状態だった」
以来、思うだけが男の幸せ状態の俺である。
「足は第二の心臓だそうだ。心臓をスケッチして何が悪いのかなと思ってみる!」
挙動不審気味に答えてみた。
「えへへ。君はつくづく嫌な人だね。お勧めしないわよ。こんな時間に彷徨って、危険に首を突っ込むなんて……馬鹿のすることだよ、縁野くん。私は悲しいよ」
彼女の鋭い目は俺を見下す。眼は鋭く、口だけは微笑んだままで。
「君を警察に突き出せば夜歩きもおさまるでしょう。面倒なお節介と世の中に絶望して」
彼女は薄く笑った。凛とした立ち姿。美しい少女。危ない少女。気高い少女。黒いウサギのような少女。俺ははっきりと発声した。
「勘違いしないで欲しい。俺には使命がある。お化け杉が出る時間は今だけで――俺はそれを捜していて――俺はゲンロクの騎士見習いなんだ」
副委員長は腕を止めた。俺はくびきから逃げ出して腕の痛みを和らげる事に専念する。腕は腫れていた。本当に酷い事をする。
「縁野くん。そう、そうなのね。あの御伽草子に書かれたゲンロクの騎士が君だと言うのね。なら、この私と一緒にお化け杉を捜してみない?」
「副委員長と一緒に?」
「私は君が助けないと死ぬの。退屈で。えへへ。私のこと思いだした? 思い出さないよね。酷い縁野君。本当にひどいよね。えへへ。私は覚えているのに、大損害だよ」
副委員長は大きく目を開いた。そこには闇が広がっていた。
「闇落ちする前の人間の目だ。この世に意義を見いだせない人間はすぐ闇落ちする。闇落ちしてこの世からいなくなる。姿を消す。それはその人が死ぬのと同じことだとおじいは言った。人の崩壊。人格の崩壊。その人間の消滅。人が人でなくなる。死んでしまう。闇落ちは人が死ぬ作業なのだとおじいは言った」
昼間はあんなに華やかだと思っていたのに。彼女は闇の花だった。みんなの憧れの存在が静かに朽ちようとしている。
そんな事はさせない。
「俺は君を闇落ちさせない」
副委員長の――口だけの鋭い笑顔は街灯に照らされてどこか寂しそうだった。
春に声をかけなくて正解だ。あの頃の俺にはどうにも出来なかったに違いない。
俺は副委員長と朝まで町を駆け抜けた。ゲンロクに行ける霊木……お化け杉を捜して。