かかしの願い
かかしは腫れぼったい眼でボーっとしていた。兄が居なくなってかかしはよく泣くようになった。無くしていた昔の自分が戻ってきたみたいだった。だから不思議な感覚がする。
「オズヌさんは頑張っているよね」
かかしの言葉を聞きながら、火佐賀屋久乃は練習中の縁野小角を見下ろす。
縁野小角の戦いの舞いは少しずつ形になり始めている。
「うん。あれは剣舞の一種ね。本当に戦闘で役に立つのか考えてしまうけど、自信に繋がればそれはそれでいいと思うわ。練習の目的は焦りと不安の解消だから」
かかしは溜息を吐いた。
「オズヌさん凄いね。強いね。泣かないんだね。あんな恐い目に遭ったのに」
「縁野くん……最初は全然、ダメだったのに目が良くなってきているね。私ならもっと簡単に完全コピーできる……いいえ、これを言ってしまえば他の人には意地悪に映るんでしょうね。これは私の、私だけの特性だから」
火佐賀屋久乃の呟きにかかしは首をかしげた。
この人はかかしとよく似ているのに、いつも厳しくて、自分にすら厳しくて、頭が痛くなる。
「どうしてそんなに自分を律するの。前になにか失敗でもしたの」
「兄と喧嘩をしたのよ。素敵な兄なんだけど、事態が私の思うようにならなかったの」
火佐賀屋久乃は目を眇めた。
「貴女がやってきたから縁野くんはゲンロクに選ばれたんでしょうね。くすくす」
かかしは首をかしげた。
「どういう事……久乃ちゃん?」
「結局――ゲンロクに憧れてゲンロクの一部になりたがっていた縁野くんが悪いという事なの。でも縁野くんは人の気持ちを読み取るのが苦手から――だから、気になったのよ。心配してここにいるわけじゃないわ。『顔のない妖精』は強すぎる。敵を力で圧倒しなければこの本は終わらないかもしれないと思うんだよね。きっと『役小角の魔法使いかもしれない』という本は縁野一族に対する呪いなんだと思うわよ」
半分――意味が解らないのでかかしは眉を寄せた。
「オズヌさんはここが好きだよ。だから帰れないんだね」
自分の解釈を話すと火佐賀屋久乃は目蓋を押さえて空を見上げた。
「かかしはうつし世が好きなの?」
「ずっと遠くに行きたかったよ。だから久乃ちゃんの世界は楽しかったよ。美味しいシチューがあってサンドイッチがあって、羨ましかった。かかしはあそこで生まれたかったな」
「そう。子供なのね。縁野くんもそうなのかもしれないね。ここから帰れない理由。きっとそうだよ。だから、帰らないのね。ただ単に向こうが嫌なんだと思う。好きじゃないんだわ」
「オズヌさんが向こうに帰りたくないと思っているの?」
「昨晩、尾路異さんと連絡が取れたのよ。縁野くんの親は子供に無関心だったそうなの。それで民俗学をやっていた尾路異さんの家に引き取られたみたいなの。尾路異さんは縁野くんに色んな話をしたそうよ。お伽の国、ゲンロクの事もその一つ。縁野くんにとってここは憧れの天国……ううん。ここを天国にするために努力する自分でいたい。そう思っているんだと思う。だから私は縁野くんが大嫌いなのね。自分の生まれた世界で努力すれば何かつかめるかもしれないのに――もったいないわよね」
抑揚のある久乃の声を聞きながらかかしは空を見上げた。半分――わからない。
「久乃ちゃん。どうして直接そう言ってあげないの?」
「自分で気がつかなくては意味がないのよ」
「でも、久乃ちゃんは消えてしまいそうだよ」
火佐賀屋久乃は唇をきつくむすんだ。
「私は兄が好きでね。その次に好きになったのが縁野くんだったの」
「私もお兄ちゃんが好きだったから、それならわかるよ」
「私は貴女と違って縁野くんなど、今はそんなに気にしていないのだけれど、彼は最近――ここを守る事に必死で、私を放ったらかしよ。護ってくれると言ったのに。嘘つきなの」
火佐賀屋久乃は長い髪をかきあげた。
「でもね、今のままでは縁野くんの命が危ない。今日こそ縁野くんを連れて帰る。そうするつもりなの」
「どうして? ねえ、オズヌさんは今も苦しんでいるの? 黒さんがいるのにさみしいの? かかしみたいに一人なの? 雷音様が助けたのに死んじゃうの?」
火佐賀屋久乃は眉をひそめた。
「ちょっと待って? 黒さん? 黒さんって何? あそこにいる黒子? それとも……」
「オズヌさんの所のメイドさんで……着物を着ていて料理が得意で……」
火佐賀屋久乃はしばらく考え込む。
「アブラムシ女か。ありがとう、かかし。その人に協力を仰ぐわ。私はうつし世に帰ってみるから。後の事、お願いね」
「うつし世って」
「私たちの世界のことよ……だからかかしは縁野くんを見守っていて」
「久乃ちゃん。オズヌさんを助けて」
火佐賀屋久乃の目は笑わず、彼女は口を裂いて笑った。
「私を誰だと思っているの?」
火佐賀屋久乃は美しく立つ。その彼女がスカートを翻らせる。カッコいい背中だ。
かかしはもしかしてと思う。
「久乃ちゃんはオズヌさんのことが好きなの?」
火佐賀屋久乃は指を宙に掲げ、顔を見せなかった。
「そんなの秘密よ。秘密を持つ女の子は美しいの」
火佐賀屋久乃は家の鍵を取り出した。ゲートが開く。彼女は長い髪をなびかせた。
「かかし。縁野くんに話しかけてあげてほしいわ……彼も友達がいないのよ」
彼女はゲートをくぐって行ってしまう。かかしは座りこんで何度もうなずいた。
「うん、かかしがオズヌさんを見守る! だから、いってらっしゃい!」
火佐賀屋久乃は少し微笑んだようだった。