三次元と四次元
ゲンロクに来て三日目の夜中。不気味な風を感じて俺は目を開いた。
「ドロシーちゃん☆」
真夜中。テントの中で目を見開いた。冷や汗が滴り落ちる。
青い矢印を感じた。濃厚な魔の気配を感じた。甘い香り。誰かが傍に居る。
艶やかなドレスを着た虎乃が青白い指で俺の手を大事そうに握っていた。
本物だった。夢ではなく本当に本物の魔の妖精がここに存在していた……。
身体に力が入らない。蟻ほどの力も出せない。相手はお化けなのに、なぜだ?
妖精と相対しているのに彼女を倒す力がまるで湧いてこない。
「ふふ。どんどん美味しそうになっていくんですね。ドロシーちゃん☆ 精神が整うと姿も美しくなると言いますよ☆ 目の輝きが……美しくなるんです☆」
妖精は目を細める。仮面をつけている。この前と同じ仮面を。
「こうやって家畜が育っていくのを見ると楽しいですよ。そうやって力を高めてどんどん気高くなるといいんです☆ 恐がらないで。さあ、お姉さんにすべてを見せて☆」
恐い。『顔のない妖精』の周りではたくさんのノドグロ様たちが倒されて転がっている。
「お前、ノドグロを!」
お化け殺しの俺でも容易に殺せないノドグロ様を……。倒しただと?
恐怖でシオリを握りしめる。妖精は俺の首筋に触れた。
フィルムのコマをぶち切ったような唐突さで、突然、指が触れた。
「必殺コマ飛ばし。あなたがいくらドロシーちゃんでもいくら早く動けても、私には何も出来ませんよ。させるつもりもありませんしね」
俺はじりじりと後退した。
「ノドグロ達が神になっても意味はないのです☆ でも私が神になったら楽しい世界をお届けしますよ☆ ドロシーちゃんは私の番組が大好きだし……☆ ふふ。私が貴方を知らないと思いましたか? 貴方が私を覗いて居る時、私も貴方を覗いていたんですよ☆ 縁野さんの魂は桃のように傷つきやすく、豊潤でたまりません☆ 冷凍ハンバーグは持っておくべきでしたね☆ どうしてあげちゃったんですか? 私と対等に戦うにはそれくらいのハンデが必要だったのに。面白くしてあげたのに」
ニュースのお姉さんは長い爪を広げてほほ笑む。
「貴方の心臓をくださいな☆」
胸の皮膚が浅く切り裂かれ、沢山の擦り傷を作る。
俺が手を振り払うと、妖精の掌に赤い傷が刻まれた。こいつは――お化けじゃない。
人間だ。人間だったんだ。
「あんたは……元人間だ。違うか?」
「わかりますか? そうです。そして人間の資格を失った人間……私は妖精です☆」
俺の首のチャックに魔女の手がかかった。これを開かれれば死ぬ。
「――――!」
そのまま一気に開く。傷口が開く。血が溢れる。気が遠くなる。
「やめて!」
かかしが王の鍵を手にテントに走りこんできた。
「これは代々ゲンロクの王様が振るう鍵だよ。貴方をこれで罰します。出て行って!」
鍵からあふれる黒の輝きが魔女を弾く。火佐賀屋様は庇うように俺の前に立つ。
「待たせたわね、縁野くん。もう怖くないわ。怯えないで。大丈夫? 平気よ」
王子のように俺に触れた火佐賀屋様の肩が上下している。あの火佐賀屋様が走って来てくれたんだ。胸が熱くなった。
「かかしちゃん。火佐賀屋さん。邪魔しないでくださいよ☆」
妖精の爪はコマを飛ばしたように――突然一メートル以上延びた。
爪に弾かれてかかしの身体がテントの外に吹き飛ぶ。
彼女はお化けなのに妖精に攻撃されても黒い血を流さなかった。妖精に傷つけられた傷もすぐに再生する。
それがネッコ族と俺との決定的な違いだった。こいつと戦うにはネッコ族の方が――相性が良い。火佐賀屋様もそれがわかったのか小さくうなずいた。
俺を抱きしめてテントの外に走る。凄い力だ火佐賀屋様。
かかしは正面を睨みつけて叫ぶ。
「芯師の力!」
かかしは黒鍵を粘土のように練り上げて針の形にした。妖精の爪と同じ長さだ。ノドグロ様の持つ剣の形をを模したものだ。その針が妖精の顔に届く。パキっ。奇妙な破裂音がした。圧縮していたものが壊れたような激しい音がした。妖精の顔にひびが入る。
「やだ、恐いです☆」
妖精は身体を翻らせると煙のように消えた。
俺は擦り傷を押さえた。震えが止まらない。
全身が冷たい。冷汗が止まらない。向こうはコマ飛ばしの魔法を持っている。
力の差を感じる。向こうにはまだまだ余力があった。今のままでは勝てない。
俺では勝てない。火佐賀屋様の兄を救う事も出来ない。妖精はこの場から去ったけれど。
だからそれが何だというんだ。三次元と四次元ぐらい違うのに!
勝てっこないじゃないか。
「縁野くん!」
火佐賀屋様が必死な顔で俺の顔を覗き込む。彼女は悲しい顔をした。
「私が守ってあげるわ。だから恐がらないでちょうだい。お願いよ」
「火佐賀屋様……」
俺が守らなくてはいけないのに彼女は気丈に俺の体を支えた。巻きこんじゃダメだ。
火佐賀屋様を巻きこんじゃダメだ。
かかしは剣を下ろす。
「オズヌさん……大丈夫だった?」
「……大丈夫じゃない。ダメだ……あれが妖精なら……ダメだ」
ラスト三分、答案用紙の最後で……難解な十点問題にぶちあたったときの時のような嫌な気分だった。火佐賀屋様は俺の冷たい手をずっと温める。温め続ける。
騒ぎに駆け付けて来た雷音様の娘は俺の傷をぶっきらぼうに手当てした。俺の傷は酷いらしい。
雷音様にたくさんのチャックで補強された。俺ってかっこ悪い。
「パパ様の占いによると今日のお前の運勢は十位でした。死ぬこともないほど悪くなければ幸運であるほど良くもない。パパ様に代わって私が傷をふさぎます。冷静になさい。妖精はあなたの焦りも勝機に繋げることでしょう。パパ様は探索に出ています。パパ様の不在を悟らせてはなりません。あなたの望みの為、行方不明者の捜索に行ったのですから」
静かな雷音様の娘の隣でかかしは取り乱していた。
「どうしよう。オズヌさんを……助けて……お願い、タスケテ」
かかしは火佐賀屋様に抱きつくと大声で泣いた。可哀想だった。
「馬鹿ね。縁野くんはこんな事じゃ何ともないわよ。悪運が強いんだからね」
大丈夫だと何度も言い聞かせて……恐がるかかしを寝かしつけて、テントを後にした。
ノドグロ様の時と違って治りかけの傷を開かれたのだ――痛みは酷いけど……動けないほどの事もない。夜気を浴びシオリを振るう。何かしていないと不安だ。何でもいい。身体を動かしていたい。指南書を読むだけでは足りない。基礎体力だけでも鍛えておきたい。
テントから火佐賀屋様と雷音様の娘が現れる。
「縁野くん、この子に頼んで見たわ。何とかなるようにしてほしいって」
「この方にも王の印があるから逆らえません。少しお前につき合いましょう。ドロシー」
雷音様の娘が剣を手にする。俺の剣はこの子供より拙い。
「頼む」
「では一局。盗むなり、覚えるなり、全裸になるなり、好きにしてください」
雷音様の娘は可憐に足を踏み鳴らした。