王様の条件
火佐賀屋様はいつも笑顔で、誰にも等価的に優しくて、でもその笑顔がたまに歪に見える事があった。
目の錯覚だと思った。けれど、もしかしたら俺と同類かもしれない。そう思った。
「中一の春、貴方の事を少しの間だけ好きだったの」
「今はどうなんだ?」
火佐賀屋様は顔を見せなかった。
「嫌いだよ。大嫌いよ」
俺が記憶を無くしたからか? 変わってしまったからか?
「な……なんで」
「『けがれた右腕の傷痕が疼く、俺に女はいらない』とか言われたよ。今は貴方の声を聞くのも匂いを嗅ぐのも嫌なの」
「君は倦怠期の嫁か!」
俺は膝をついた。当時の俺がどんなつもりだったのか知らないが。俺の馬鹿……。
そんな事を言う奴は十中八九嫌われる。嫌われて当然だ。
「だから私に縁野くんのけがれた死体を見せたら、七回殺すからね」
「それ物理的に最初から俺が死んでいる! なんで殺しちゃうんだよ。もう少し生かしておいてくれよ。瀕死でもいいから。きっと役に立つよ。弾除けくらいにはなるから」
「ならこれからの三年間で私の青春時代をすべて返して。それが出来ないなら縁野くんにささやかな復讐をするから。毎日ブラックボードをひっかくから。覚悟してよね」
「イチバン間近でその音が君にも聞こえるけど――大丈夫か?」
「誤算だったわ。私の兄はね、そんなおちゃめな私がかわいいといつも言っていたわ。私ね。子供のころ川で事故に遭ったの。友達は全部いなくなってしまったわ。だから私は演技をすることに決めたの。世界中のみんなのいいところを引っ付けてやるってね」
火佐賀屋様はスカートをはためかせ、颯爽と去っていく。
大正時代風のサラリーマンたちが神妙な顔で俺を囲う。
「ドロシー殿。『けがれた右腕の傷』は今も疼いているんですか?」
「今――それを聞くのか!」
通りすがりの近所のおじいさんは震えながら俺を見た。
「ドロシー様。女はいらないと言う事は男が好きなのですか?」
「いいえ。女の人が好きです」
「ばあさんはやらんぞー!」
「貴方が大切にしろ!」
今度はゲンロクの子供たちが俺を見上げる。
「ドロシー様。ゲンロクの騎士見習いって具体的に何をするんですか?」
「盆地の見回り、井戸の栓を抜くこと。こっちじゃ出来ないけど……」
老人たちは笑顔になった。嬉しそうに俺にデッキブラシを押し渡した。空を指さす。
「いい天気ですな。今日は飛べますかな? 魔法使い!」
「うつし世では心がきれいだと空が飛べるそうですな。本当ですかな?」
火佐賀屋様、みんなにでたらめふきこんだな。くううう。
「……明日も明後日も飛べませんがなにか……!」
「女好きで空も飛べんとは、どうしてそんなに汚らわしいのですか!? やはり汚れた傷痕が原因で?」
「空なんて最初から飛べるか……!」
火佐賀屋様……君は俺をどうしたいんだ……。俺は今までの生き方を全力で猛省した。
過去をあまり覚えていないことが悔やまれる。俺は今まで何して生きていたんだ。
しかも復讐されていた。猛烈にいたたまれなくなってきて地面に座り込む。
「俺はゲンロクの事なんてよく知らないけど、この街を守るよ。この国についてもっと教えて欲しい。お願いだ」
ネッコ族たちは感動した。拍手が巻き起こる。
「ドロシー様、最高!」
「さすが尾路異さまの甥っ子ですな!」
俺の人気がウナギ登りだった。
ありがとう、おじい。みんな一緒で戦えるなら何とかなりそうだ。
ホッとしたその時だった。唐突に皆の顔が引きつったのは。
「オズヌさん!」
俺の背後にかかしが立っていた。頭に小さな王冠を乗せている。
「よかった。助かったんだね。かかしでよかったら何でも教えるよ。オズヌさん」
ひそひそと声が聞こえる。
(かかし。間違いで選ばれた王。偽りの王。愚かな王)
「何か言ったか?」
「いいえ。何も言っておりません。ドロシー様。しかし傷は口ほどに物を言うのはゲンロクの道理なのです……」
多くの村人たちの身体には俺と同じチャックが張り付いていた。
怪我をした印。そしてそのチャックが開き、雄弁に口をきくのだ。
(王は役に立ちません。ドロシー様が頼り。ノドグロを全滅させ、平和なゲンロクを!)
声はそこから自動的に溢れてくる。かかしは耳をふさぐ。
「かかし。本当に君が今の王様なのか? その、向いてないと思うのだが」
俺の言葉にネッコ族が答える。
「そうでございます。ドロシー様」
かかしはぶるぶる震えて俺の後ろに隠れた。俺はネッコ族を見渡す。
「もしかして君たちも俺みたいに、何かに襲われたのか?」
「ノドグロどもに襲われてこうなったのでございます」
かかしは青ざめ唇をきつく結ぶと逃げるように駆け出していく。
「あ、かかし!」
「あれではあまりにも頼りなく。ヒサノ殿が王ならばどれほど心強かったことか……」
確かにあいつの方が向いているのかもしれないが。
「向いているから選ばれるわけじゃないからな。こういうのって」
雷音様に相談してみよう。あの人は頼りになりそうだった。
どうやったら、王を降りられるのか。それを問いに行こう。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
お化け杉の木陰で俺は惰眠を貪っていた。傷よ、早く癒えてくれ。そう祈る。
ネッコ族の子供たちが木のぼりで遊んでいる。のどかだ。
俺はドロシーの服を勧めてくる村人たちから見事逃げ切って巨木の隣に横たわる。
溜息を吐いた。かかしは村人に嫌われている。王様なのにとても頼りないからだ。急にしっかりしろと言われても、お化けもすぐには変われないんだろう。どうしたものか。
「ドロシーってどんな事をするんだろう」
お爺は何かを言っていたが忘れてしまった。流れ落ちてしまった。中学時代の思い出は蘇らない。だからこそ、これからのつながりを大事に思う。
『王は四年に一度、フルーツバスケットで決められるのだ』と雷音様は言った。
『王と勝負をしてそれに勝ったら王位は移るが、誰も王になりたがらぬ。この大変な時期にわざわざ王になろうと思う者もいないだろうよ』とも言った。
『お前もかかしでは向いておらぬと思うのであろうが、ドロシーでは王になれん。わしとて以前、王は経験済みでな、代わってやる事も出来んのだよ』とも言われた。
八方ふさがりか。命を助けられたのに、何もしてやれないのか。
唸っていると唇を尖らせて火佐賀屋様が向こうから歩いて来た。
「ドロシーちゃん。私とそっくりな顔が泣きながら、私の所に来たんだけれど何かしたの? 七倍にして返そうかしら?」
絶対にこいつを退屈させるわけにはいかない。全力でもてなす!
「火佐賀屋様――どの辺を七倍にするんだ?」
「顔面に日焼けオイルを七倍なの」
「俺の顔を黒くして一体何をたくらんでいるというんだ!」
「サーファーだと嘘をつくの」
「俺、カナヅチだけど?」
「だから海の家で七倍、恥をかくの。くすくす。残念ね、縁野君」
相も変わらず恐るべき少女だった。
「で、かかしは大丈夫か?」
「今……顔が腫れあがっていて見せられない。いつもはとっても可愛いのに」
自分の顔にとても自信があるようだった。
「どこから来るんだ、その自信は」
「アフリカ大陸から」
「具体的だね」
「チョコレート大好き。お肌がプルプル。アフリカ最高と思ってみる」
こいつ、思ってみるを完璧に使いこなしていた。もはや完全に口癖を奪われたようだ。
「君とて人に食事のバランスのこと言えないな!」
「ちゃんとバランスよく食べているんだよ。この変色フルーツさん」
俺は木にもたれた。
「もう何とでも言ってくれ」
「縁野くんが反撃してこないなんて、そろそろブドウが降ってくるころかもしれないねと空を見上げてみる」
「いくらゲンロクでもそんな馬鹿なことは」
「食らえ、ドロシー!」
木登りをしていた子供たちが上から虹色のブドウを次々と俺に投げつける。
「俺の好物に何をする! 食べ物を投げるな!」
「あはは、くらえ!」
俺は子供が下に置いていたザルで果物を必死に受け止め、口にする。あ……美味しい。
すべてを受けとめ、子供の頬をつまみ、事態を一段落させた俺の隣に火佐賀屋様は腰を下ろした。
「縁野くん。私にも一口食べさせてほしいんだけど」
「了解です」
川のせせらぎが聞こえる。ゲンロクの聖なる水が流れているのだ。
「縁野くん。かかしの村がノドグロに流された話は聞いた?」
「ああ。聞いたけれど」
「ここの前の王様はかかしのお兄さんだったらしいよ」
兄を捜す……そうか。それは火佐賀屋様の望みとも重なるのか。
「かかしはネッコ族とうまくいってないみたいだな」
「縁野くんも気づいていたんだね。鈍いのに」
「それでかかしのお兄さんは……」
「王の仕事の途中でノドグロに流されたそうだから、望みはあると思うよ。そう励ましておいたわ。でも取り戻すのは誰にも無理だと思う。妖精にさらわれたらしいから。それに」
「それに?」
「ノドグロがここを狙っているみたいね。見てみて。バリケードの向こうに敵がいるから」
白いライダースーツが恨めしそうにこっちを観察している。
俺と目が合うと奴等は一目散に逃げ出した。
「あいつらはどうしてこの街を襲うんだ?」
「どうやらドロシーの心臓を狙っているみたいなの」
「うつし世に帰りたい……」
心底そう思った。火佐賀屋様は足を組む。
「心配しないで。私は今すぐ貴方と帰るつもりだから。来て」
「でも、かかしを残しては行けない。それに、お前の兄貴だって!」
「私の兄も流されたかもしれないね」
そう呟いた火佐賀屋様の目の中は真っ黒だった。闇落ちの症状が治らない。
「なんだよ! きっとここにいる! ここのどこかで君の助けを待っている!」
「きっと貴方にも私にも何も出来ない……。もっと厄介な化け物――前の王様を倒した『顔のない妖精』もこの街を狙っているみたい。縁野くん、今すぐ帰ろう」
「だったら君はどうなるんだ! このままじゃ! このままじゃ君が!」
彼女は俺の髪から葉っぱを一枚取り去る。哀しそうな顔をした。
「馬鹿な人……」
「火佐賀屋様!」
火佐賀屋様は自宅の鍵を振りまわした。そこに扉が現れる。
「私は帰るから。学校があるもの、それじゃあ。貴方も帰りなさい」
「君は俺より魔法使いじゃないか! 今から一緒にゲンロクを探索しよう!」
「こんな所なんて大嫌い。永遠にサヨウナラ。馬鹿な縁野くん」
火佐賀屋様は唇を尖らせる。何がいけなかったのか、徹底的に嫌われた俺は……その場に座り込んで、賢い生き方について真剣に考えたのだった。