プロローグ
この世界にドロシーはいない。
頭が良く、勇気があって、人情の厚い人間。そんな人間がもしもいるのなら、聞いてみたい事が一つや二つあったけれど俺には現在、友達がいないので聞かない。
夏休みも終わろうとしているのに熱せられた空気が肌にまとわりつく。
明日は夏季補習の日だ。
原因は英語のテストに敗北した事だが心なしかシャーペンが重い。
ぼろマンションの一室――着物メイドの黒さんが掃除機をかけている隣で――生温い床の上に寝転がる。遠くで死にかけたセミの声が聞こえた。
クーラーとよく眠れるまくらを準備してスタンバイする。これでよし。短期間の昼寝は著しく脳を活性化させるそうだ。いいねえ。
目を閉じると夢を見る。人間の無意識はそうやって色んな世界を旅する。そうして疲れた心と体を癒すのかもしれない。そこで現実を打破するヒントを得るのかもしれない。
夢占いの本を開いて我が家の着物家政婦の黒さんにそう訴えたら、
「えへへ。そうやって夢ばかり見ていると、現実に置いていかれますよ」
と諭された。そこが可愛くて清楚なうちのメイド黒さんの美徳なのだが、覚える必要のある英単語の山に疲れを感じた俺は、さらに布団をかぶった。面倒くさい。
お伽の国の夢を見てしまうのは、好きな小説家の影響だ……後は。
子供の頃、おじいが酒をあおるたびに……幻の国の話をしていたからかもしれない。
「精神集中、精神集中。今日こそは良い夢を見よう。ドロシーのように美しい裸足の――控えめで可愛い女の子の夢をどうか」
軽い癖毛を指で撫でつけながら、低反発まくらを軽く叩く俺を見て黒さんは微笑む。
「縁野さんの家の小角様、寝る前にココアはいかがですか?」
「そうだな……今日は自家製フルーツオレにしてくれ。バレンシアオレンジをメインに」
黒さんは笑って頷いた。
「坊ちゃま、かしこまりました。お化け杉が出る時間まで、まだ数時間あります。良い夢を」
この地方都市でお化けと戦える人間は俺だけだ。現実は痛い。
だからせめて夢くらいはいい夢をみたいんだ。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
空が緑色に輝いている。木々がさざめき、子供たちがはしゃいでいる。
無事、お伽の国の夢を見ることが出来たようだ。
俺は草原に立つ。南風が頬を撫でる。さっきから子供の声がウルサイ。
どうしたんだろう。何を騒いでいるんだろう。
小さな子どもたちが――さらに小柄の女の子を置きざりにして走る。
「おい、かかしが来たぞ。逃げろ、逃げろ!」
「待って、待ってよ……そんなに早いと私、追いつけない……」
やせぎすで小さな女の子――かかしは頼りなく草原にうずくまる。
足はすり傷だらけだ。靴はどこに行ったんだろう。茂みの奥に少女の靴がある。
『君よ、靴ならここに』
伸ばした手は少女をすり抜けた。どうやらこの夢には干渉できないらしい。
「待ってよ! 待って」
どこか遠くに行けば、彼女は変われるかもしれない。今の自分を捨てて新しく生まれ変われるかもしれない。生気もなく笑顔もない。人形のような少女はうずくまって祈った。
「お願い――パシリなんてもう嫌なの」
ここから出ていく。
この世界にドロシーなんていないのなら、かかしがドロシーを捜しに行く。
女の子は卵に姿を変える。卵はひび割れて壊れて消える――そんな不思議な夢を見た。