玖
ディーオは神龍ではない、しかしそれなら何故神龍を演じているのか。それは遥か昔、時をいくら巻き戻せばいいだろうか。ディーオの心の中の奥深くに沈んでいるその記憶には、神龍ではないディーオとかつて神龍と言われていた老いた龍がいた。
二体の龍は向き合っている。ディーオは緊張しているみたいで、老いた龍はその鋭い目で若僧を睨んでいる。別に怒っているわけではなさそうだ。元からそんな顔だったのか、長い時の流れでそんな顔になったのか。
ディーオは老いた龍と目を合わすことができないでいた。それにたいして老いた龍は怒ることはない、何も喋らずにただ待っていた。焦らなくていい、ゆっくりしなさい、そんな声が聞こえてきそうだ。
静かな時間が流れる。ディーオと老いた龍がいるここは世界のどこかにある洞窟だ。風が吹くことはなく、太陽の光も入ってくることはない。今この時この瞬間、外は明るいのか暗いのかわからない。こんなところにいるなんてまるで隠れているみたいだ。誰にも見つからないように。
老いた龍は咳き込んだ、ごほごほと辛そうだゴホゴホと痛そうだ。口をもぞもぞと動かして、何かを喋ろうとしている。ディーオはその様子に気付き大丈夫か伺う、すると大丈夫とかえってきた。
『見ての通りワシの終わりはもうすぐそこに来ている
。こんなに弱々しい姿は誰にも見せられない、神龍がこんな死にかけの老いぼれだと格好悪いだろ。そうは思わないか?』
「いえ……私はそう思いません。神龍である貴方が終わりを迎えるなんて、そんなこと受け入れられません」
ディーオはそんなことを言っても意味がないことをわかっている。わかっていて言うのは神龍になる自信がないからだ。今までただのドラゴンとして生きてきた、そこに急に神龍という地位が重くのし掛かるのだ。ディーオがそうなる気持ちもわかる。
『お前は目の前にいるこの死にかけの老いぼれに、まだ神龍として崇められろというのか?』
「はい、神龍様は貴方が唯一無二でございます。貴方が神龍ではなくなるというのなら、もう神龍はこの世から消えたということになります」
そんな言い方失礼だろう。命の終わりがもうすぐ来る老いた龍にたいして。しかしディーオは怒られても、睨まれても、神龍になるぐらいなら我慢できるのだ。それほどまでに跡を継ぎたくないのは、自分にはそのような器がないことはわかっているからだ。
この時のディーオは今のような落ち着きはない。それどころか青臭く、自分に甘く、世界のせの字もわからないぐらい能天気だ。こんな若造に神龍を任せるのには不安だらけだ、老いた龍の考えがわからない。
『お前は私によって選ばれたのだ、だから背くことはできない。神龍がこの世からいなくなれば均衡が破られてしまう。そうなればこの世界はまた荒れるだろう。天変地異が巻き起こり、この緑豊かな世界はどうなるであろうか……』
老いた龍は多少強引でもディーオに跡を継がせるつもりだ。もうお迎えの足音はそこまで来ている、だから今更他のドラゴンを選ぶわけにはいかない。神龍という重荷を若いドラゴンに背負わせてしまうのは胸が痛む。しかしもう決めたことだ、一度決めたことを曲げている時間も残されていない。
「私には無理です、私はそのような重責を担えません。いくら神龍である貴方からの命であっても」
ディーオは頑なに拒み続ける。ここで頷いてしまえば神龍を受け継ぐことになる、そうなったら素晴らしい地位を手に入れることはできるが、この先ずっと長い時間それに見合う行動をしなければならなくなる。
神龍というものを汚すことなく、皆に愛され崇められ敬われる存在として君臨しなければならない。それは強大な力が有ればいいということではない、時には世界を導き世界を救い世界の均衡を保つのだ。
『わかってくれ……ワシはもうこの世を去る。死にゆく者の最期のわがままを聞いてくれ、どうかこの通り……』
老いた龍は最期の力を振り絞るかのように声をだす。ディーオは老いた龍の目をしっかりと見ている。今から話すことを忘れないように、心に残しておくように。もう断れる状況ではないと、ディーオは心のどこかで決心したのだろうか。
『ワシは長い長い時の流れの中にずっといた。太陽が現れ、それが空から見下ろして、そして赤くなって沈んでいく。この繰返しの中にワシは居続けた』
老いた龍はディーオに向けて言葉を紡ぐ。その言葉はいつ切れてもおかしくない。命の終わりはもうすぐだ。
『……長い時の流れの中に居るのも悪くはなかった。ワシは、光輝く命を沢山見た。それが今頭の中によみがえる……そしてそれは、未来へと繋げていく』
瞼が重いのか目を閉じたり開けたりしている。老いた龍はその役目を終える。
『……ワシには未来が見える。空を優雅に泳ぐドラゴンは……やがてこの世界から消える。そうなる前に……手を打て』
ディーオだけが感じた一つの大きな光が消え去る瞬間。その意思を引き継ぐディーオは何を思っているだろう。
『……地上を支配している人間に近づけ。彼らは頭がいい……そして強い……ドラゴンと人間はこれまで互いの聖域を踏み越えないようにしていた、しかしこれからは聖域を踏み越えてみろ』
老いた龍は目を完全に閉じている。口はほんの少しだけ開いている。体はぴくりとも動かない、まるで石のように固くなったみたいだ。
『聖域は越えてはいけない、その常識をぶち壊すのだ。そして人間と仲良くなれ、そうすれば今まで見たことのない新たな道が開けるだろう。それは茨の道となるか、けもの道となるか……それとも』
声は弱々しく耳をすませないと聞こえないぐらいに小さい。今まで光続けていた光がチカチカと点滅しているみたいだ。
『……ディーオ……お前が…………新しい、世界を……作るのだ。ワシは疲れたから寝る…………起こすでないぞ…………』
そして老いた龍はもう二度と声を出すことはなかった。洞窟内には今まで以上に静かな時間が流れているような気がする。それは老いた龍が永遠の眠りに着いてしまったからだろうか。
ディーオは老いた龍を見続けている。神龍にだっていずれ終わりが来る、そののとがまだ信じられないのだ。生きとし生けるものにはみな終わりがある。どれぐらいの時間を生きるかはそれぞれ異なる、短いのか長いのかの違いしかない。
「神龍様……」
もうその役目はディーオであり、今しがた終わりを告げた老いた龍ではない。神龍は正真正銘ディーオである。ディーオは力を手に入れた、崇められる存在となった、敬われる存在となった、愛される存在となった。
神龍は人間と出会うことになる。そういう未来が見えたから、新たな道を開けるために、空を泳ぎ続けなければならない。さあ洞窟から出よう、いつまでもこんな所にいても何も始まらない。
ディーオはここから離れる前に老いた龍を見た。例え命が終わっても、その存在はひときわ際立っている。この洞窟には何もないから余計に強調されているのだろうが、神龍というのは誰よりも煌めいているということがわかる。死してなお、その存在感は増しているように思えてくる。
かつて神龍といわれていた老いた龍から、その意志と力と地位は受け継がれる。ディーオの体が光で包まれ、そして神龍となった。
『私ワコノ世界ヲ見守ル神龍ダ。何カアレバ皆ヲ導キ、救イノ手ヲ差シ伸ベル。空ヲ泳ゴウ、地上ヲ見ヨウ、ソレハ今日ノタメニ明日ノタメニ』
神龍となったディーオは、新たな世界を作るために出口へと向かう。そして見えてきた外の光、それは眩しくてあたたかくて心地好い。
『人間ニ近ヅクノハ誰ダ? 人間ト心ヲ通ジ合ワセルノハ私カ? ドラゴント人間ノハーフヲ作ルノモ私カ?』
その意志は受け継がれる。今日のために、明日のために、長い時の流れのために。