捌
ディーオは人間の姿で椅子に座っている。目を閉じて眠っている少女を優しく見守るその表情は母親のような、父親のような感じがする。少女はもう落ち着いた様子だ、さっきまで広場で泣き叫びその声が木霊していた。あんなにも激しい声で泣き叫んでいたらこの場所が人間にバレてしまいそうだ。ディーオはそれでもバルコニーから動かずに、その声が止むのをじっと待った。
何故様子を見に行かなかったのか、それは少女の泣き叫ぶ声を聞いてその時が来たと確信したからだ。ずっと望んでいた、待ちに待った、それがようやく叶うのだから体全体に幸せが満たされていくような感じがする。
それはディーオにとっては闇に射し込む一筋の光かもしれない。仲間たちは狩られてしまう恐怖や、ドラゴンと人間の共存というものがもう古いものであり時代遅れなのだと言って次々と人間界へと下りていく。そうなってしまったのはディーオに神龍としての威厳が無くなってしまったからだろうか。
神龍とはその字の通り神の龍のことだ。皆に崇められて、愛されて、拠り所にされて、神聖なものとして扱われるべきなのだ。それがディーオには当てはまらない、しかしかつてそうだった名残が各地にまだ存在してそれは人にもドラゴンにも当てはまる。
人間からすればドラゴンとは、遥か昔人間を背に乗せて一緒に空を飛んでいた友達であり親友。時には手を取り合い迫り来る危機と戦ったこともある。しかしある出来事がきっかけとなり人間とドラゴンの仲は悪くなった。これぐらいしかわかっていない、ドラゴンと共存していた時代の資料はあまり残っていないのだ。
ドラゴンからすれば人間とは、小さくて弱くて寿命が短い動物という認識であった。生まれてもすぐには歩けない、上手く言葉を発っせない、常に親が側にいないと何もできない。しかしそんな人間もだんだん成長していく。歩けるようになる、話せるようになる、色んなことを学ぶようになる、その手に技術を身に付ける、人のために汗を流す自分のために毎日を生きる。一瞬で燃え尽きる命なのに光輝いている。そう思って感心している。
人間はドラゴンに興味をもった、ドラゴンも人間に興味をもった。仲良くなれるかな、何か面白いことが起こればいいな、食べられないか心配だな、小さいから踏み潰さないか心配だな。そんなことを考えながら一人の人間と、一体のドラゴンは出会ったのだ。これが全ての始まりだった。
『少し風にあたろう……』
ディーオは部屋から出ていき、廊下を歩いている。廊下には誰が描いたかわからない絵画が飾られ、等間隔にツボが置かれていた。この洋館はかつて誰かが住んでいたのだろうか、ドラゴンにこのような趣味があるのだろうか。その誰かとはいったい誰なのだろうか、それともそんな誰かは初めから存在しないのか。
下階に行くために階段をおりる。その途中、踊り場にも誰が描いたかわからない絵画が飾られていた。ディーオはそんなものには気にしないだろうと思っていたが、絵画の目の前で立ち止まってそれをまじまじと見るのであった。
絵画には一人の女性が描かれていた。真っ白な服を着ていて、艶やかな長い黒髪で、美しい顔だちをしている。そして笑っている。他の絵は風景画ばかりだったが、この絵だけ何故か人物画だ。綺麗な額縁に入れられていて、大切に保存されているような気がする。
ディーオは額縁の中の女性を見ている。女性は笑っている、もともとそういう絵なのだから当たり前だ。この女性は何を思い何を感じ何を考えて笑っているのだろ。どんなに嬉しいことがあったのか、どんなに楽しいことがあったのか、額縁の中の女性は幸せそうだ。
絵画へと手をのばすディーオ。額縁の中の女性は相変わらず笑っている。するとディーオは何かをぼそっと呟いた。呟きながら、額縁の上から女性の頭を撫でている。ディーオはこの女性を知っているのだろうか、だからそんなにも優しい目をしているのだろう。
『ミサ……私は君のことをずっと覚えているからね』
ディーオはそれだけ言うと階段を下りていった。額縁の女性はそう言われて嬉しいのか笑っている。ディーオとあの女性、どんな関係なのか気になるが今は風にあたろう。強い風は吹いていない、かといって生ぬるい嫌な風ではない。心地好い風がちょうど吹いている。
外に出て風にあたる。この風が希望を運んできてくれたのか、もしそうならば心のどこかで様子を伺っている悪しきものをどこかへ飛ばしてくれ。それが私の心を揺さぶると手元が狂ってしまう。あれは私がずっと望んでいたこと、それは何も間違っていない。だから喜べばいい、笑えばいい。
あの子もようやく同じになれた、あの子がようやく仲間になれた。あの子のドラゴン化が始まって私は嬉しい。あの声は人間のそれではなくて、ドラゴンのそれとなっていた。綺麗で大きな翼が背中にはあった、悲しみの中で始まったドラゴン化は私にとってはただ一つの光なのだ。
今まであの子はドラゴンになれなかった。だからあの子は人間界から連れてきたのだろうと思われていた。そんなことするわけがない、人間とドラゴンは共存していたんだ、人間は友達なんだ。友達にそんな酷いことはできないよ。
じゃあ何故、あの子はドラゴンになれなかったのか。それはきっと……今はこの話はいいだろう、今は喜びに満たされよう今はあの子におめでとうと祝おう。仲間たちが去り、誰もいないこの一帯は静かで寂しいがまた一から始めればいい。かつてできたじゃないか、あれと同じことをまたすればいい。ただそれだけのこと。
『ミサ……あの子は大きくなったよ。時間は随分かかった、しかし私達の強い思いは時を越えて繋がったのだ』
ディーオは空を見上げて話しかける。そこには誰もいないが、遠くに行ってしまった人へと話しかけている。
『これで良かったのだろう? 私はミサの望みを叶えた、それは私の望みでもあったから』
中性的なその容姿は泣いているような、笑っているような、それを混ぜたような表情をしている。嬉しさの裏には悲しさがあり、悲しさの裏には嬉しさがあるのだ。
『あの時の思いが今輝く、あの子にそれを押し付けるのは酷な話だがきっとわかってくれるよ』
ディーオは心地好い風にあたりながら目を閉じて長い時の流れを遡る。ディーオの横を流れていくのは色んな記憶、それはすべて通り過ぎてきた昔のこと。そこには懐かしい顔が沢山あった。皆こっちを向いている、手を振っている、笑っている、何か伝えたいのか大声を出している。
またお話したいな、また遊びたいな、またこの空を一緒に泳ぎたいな。そういくら思ってもそんなことはもうできない。記憶の中の彼らはここにはいない、もうこの世にすらいないやつもいる。まだ生きていたとしても、もう人間界へと下りていっただろう。
時間をさらに巻き戻してみよう。そうすれば会いたい人が現れる。ほら、だんだん見えてきた。真っ白な服を着ていて、艶やかな長い黒髪で、美しい顔だちをしている。そして笑っている。目を閉じればいつでも会える、だからいつも側にいてくれる。
しかし目を開けるとそこには誰もいない。一気に寂しくなる、この風が少し寒く思えてしまう。これは私が招いた現実だ、全て私が悪いのだ、私のせいで仲間たちには苦労を掛けることになって申し訳ない。人間界で無事に幸せに新たな毎日をおくってもらいたい、私ができるのは願うということだけだ。
だが私は何もかも失ったわけではない。私には大切なあの子がいる、あの子がいる限り私は死ねない、死ぬつもりなど初めからないがな。生きとし生きるものにはやがて終わりが来る、長い時間を生きるドラゴンにとってはあまり考えないことだが。
……それよりも、思ったよりは欺けた。騙しているようで悪いなとは思った、しかし案外わからないものなのだと驚いた。わかっているやつもいただろう、しかしそれを私に言うやつなどいなかった。
私が神龍ではないということを。