伍
ディーオは空を優雅に泳いでいる。
背中には少女はいない。少女はまだ部屋で眠っているだろう、いやもう起きたのかもしれない。少女の傍に子ども達を置いてきたのは少女の心を安定させるためだ。ディーオと少女はここ連日、仲間を助け出すために各地を飛んでいる。人間が持っていても意味がない卵、それを全員助け出したいのだ。
何故人間が卵を持っていても意味がないのか? それは卵が特別な方法でないと孵化しないからだ。いくら温めても意味がない、かといって床や壁に力の限り投げてもヒビすら入らない。何をしてもドラゴンの卵には傷一つ付かなくて、新しく生まれてくる命を見ることもできない。それを知らない人間は卵を持っている。教えてやったほうが楽なのかもしれないが、人間はドラゴンの言う事なんて聞いてはくれない。
そもそもドラゴンが喋る言葉は人間には伝わらない。私は危害を加えるつもりはない、そうドラゴンが言ったとしても人間からすればただ大きな声で吠えたけっているようにしか聞こえない。それがドラゴンと人間の仲を引き裂いたあの出来事に繋がるのだ。あの出来事から二つの種族の間には大きな亀裂が入って、それは今も埋めることができないのだ。亀裂は広がるばかりで縮まることは無い。二つの種族はもう昔のように互いを信頼できる関係には戻れないのだろうか。
太陽がこれでもかと熱く燃えている。ディーオは暑くないのか、涼しい顔で空を泳いでいる。鳥の団体様が前方からやってくる。するとディーオは少し右に動いた。鳥の団体様はそのまま直進して、ディーオに当たることは無かった。鳥はディーオが怖くないのだろうか、視界にドラゴンがが入ったら逃げるのが普通だと思うのだが。
地上は木々が沢山あって、山や川も見える。人間が住んでいそうな家は一つも見えない。ここらへんには住んでいないのだろうか。ここなら人間からの攻撃に警戒しないで済むような気もするが、ディーオは両目をキョロキョロ動かして油断を怠らない。油断が命取りになってしまう、いくら人間の姿が見えなくても何処かで待ち伏せをしている可能性だって考えられる。油断をした一瞬の隙に攻撃され、それが命中して、致命傷にでもなったらもう助からないだろう。
一人で待ち伏せているとは考えられない。ドラゴン狩りは複数人で行われる。一人じゃ敵わない相手でも複数なら勝てる。例え多くの命を失ってしまっても、最終的に勝てばいいのだ。失った命を弔い、次に繋げるために頑張って、人間の恐ろしさをドラゴンに知らしめるのだ。そうしていけばいずれ村や町を襲わなくなる、争いが静まることが一番の願いなのだ。誰も好きで戦っているわけではない、自分のために家族のために村や町のために、生きるために戦っているのだ。
ディーオは山が連なるところへと急降下していく。そんなスピードを出していたら山にぶつかる、そうなれば大怪我は確実だ。それだけならまだマシだが最悪死ぬことだってありえる。人間との仲を取り戻すのはもう諦めたのか? だからこの山にぶつかって死のうと思っているのか? そんなことをすれば少女が悲しむ、子どもたちが悲しむ。だから早まるな、まだディーオが死ぬわけにはいかない。まだやるべきことは残っている。再び手を取り合うその時まで生きなければならない。
その時ディーオの体が光った。光は全身を包む。ディーオの姿は光で見えなくなってしまった。いったいどうなっている、この光は何なのだろう、ディーオは無事なのだろうか。光は山と山に囲まれた、湖と緑の不思議な空間へと吸い寄せられるかのように何の躊躇いもなく進んでいった。
光は木々や花々が生い茂る中でゆっくりと止まった。それを見ている沢山の目が光る、その光りは草食動物だったり肉食動物だったり様々だ。動物たちは光りに驚くことなく、襲いかかってくることもなくただ見ている。
すると光が消えた。光が消えて現れたのは髪の毛が長い女性、いやその服装は男性が着るようなものだ。この人間の性別ははっきりとしないが、この人間はいったい何者なのだろうか。光が包む前、そこにはドラゴンのディーオがいた。しかし今ここにいるのはドラゴンではなく人間。ディーオはどこに行ってしまったのだろうか。
中性的な人間は動物の視線を受けながら歩いていく。その視線には気づいているはずだが、何も気にしていないように見える。気にせずに進むと水が見えてきた。辺り一面に広がっている。これは湖だろうか。
湖に向けて突き出るように岩が出ていて、中性的な人間はそこに向けて歩いていく。そんなところに行って湖へと飛び込むつもりだろうか。飛び込んだとしても命の危険はなさそうな高さだが、それでも湖から突き出た岩までは高さがある。
突き出た岩の先端まで来るとそこで立ち止まった。中性的な人間は湖を見ている、その水質は濁っていなくて透明で綺麗だ。それは何にも汚されていない、とても美しいようなものに見える。
『待たせてすまない』
すると中性的な人間は湖に向けて話しかけた。声は綺麗で女性的なような感じがする。まわりには誰もいなく、そんなところで話しかけても返事なんてなさそうだ。ひょっとして人間を大人しく見ている動物たちに話しかけたのか。
「ふふふ、貴方は時間に囚われないところで過ごしているからね。私もかつてはそうだったわ」
「遅い、もう帰るところだった」
「久しぶりに会ったけれど相変わらずね。その自分らしさを大切にするところだけは感心しちゃう」
「僕がどれだけ待ったと思ってるの? 時間はいつも進んでいる、そのことを君は知らないの?」
すると湖のどこかから声が聞こえてきた。その声は女性の声、男性の声、女性の声、男性の声の順番だ。湖の遠くの方に、うっすらと見える人の影はこの声の持ち主だろうか。
『この前のこと、考えてくれたか?』
「ふふふ、貴方は自分しか可愛くなくて他人には厳しい。それが貴方の長所だけど短所でもあるということに気づいてほしい」
『ワタシは常に皆のことを考えている。だからこそ行動に移したのだ』
「それは間違ったことじゃない、しかしお前は事態を悪化させていることに気づいていない」
『それはわかっている、だからその時は慎重に動いている』
「それはどうなのかしらね。貴方は猪突猛進、猪みたいに突き進む。それは前だけしか見えていなくて、まわりを見ていないのかもしれない」
『そんなことはない、怠りなどはなく目配りをしている』
「それは君が自分勝手にそう思い込んでるだけじゃない? 自己中心的なその性格直したほうがいいよ?」
なんだか中性的な人間が皆にいじめられているみたいだ。数の暴力というのか、一人を数で力任せにねじ伏せているような気がする。これでは中性的な人間がかわいそうだ。味方は誰一人としていなくて頼れるのは己のみ。
『ワタシは間違っているのか?』
「ふふふ、貴方は間違っていない。でも貴方のやり方では誰も救えない」
『間違っていない、しかし救えない。それはどういうことだ』
「お前は過去に縛られているんだ、それを無くすのも寂しいが時間は動いているんだ」
『ワタシは、ワタシたちはあれが普通だ。今のこの姿は普通じゃない』
「その気持ちはわかるわよ、でもね今の状況下ではこの姿のほうが安全なの。それにもうこの世界はあれを望んでいない」
『捨てろというのか、お前たちはドラゴンをやめるのか?』
「神龍だから責任を感じているんだね? でもさディーオも時代の流れに乗りなよ?」
中性的な人間はドラゴンのディーオだった。何故人の姿になっているのか、それはわからないがとても悲しそうな表情をしている。湖の遠くの方に見える影が動いている。この場から立ち去るようだ。
しかしディーオは湖へと大声を出した。それは湖に波紋を作った。きっとそれは遠くの方に見える影がいるところまで届いただろう。ディーオは握りこぶしを作り、湖に向けてゆっくりと頭を下げた。
『頼む、もう少しワタシに時間をくれないか』