弐
家の中は片付いている。何も散らかっていなく、釜戸や箪笥や囲炉裏にも汚れがなく、まるで時が止まっているようだ。
少女は迷うことなく進む。しかし靴を脱ぐことは忘れない。靴を脱いで、足をあげて、居住空間へと入っていく。
居住空間といってもこの家にはこの一つの部屋しかない。お金持ちのように幾つも部屋はないのだ。一つの部屋にご飯を食べる場所、体を休める場所、料理を作る場所がある。
少女は三つある箪笥を見る。箪笥は全部同じような色、同じような段数、同じような形、どれも同じように見えて違いなんてわからない。
少女はその三つの箪笥をじっと見ている。そして時間をかけることなく、三つの箪笥から一つを選んだ。少女は何がわかったのか、何を感じ取ったのか、箪笥には何があるのか。
「あった、見つけた」
一番下の引き出しを開けた少女はそう言った。いったい何を見つけたんだ、そして何故ここにあることがわかったんだ。
少女はふーと大きく息をはいた。気合いを入れているのか、緊張しているのか、そのどちらもか。少女は両手を引き出しの中に入れた。
「こんなところにいて窮屈だったろ? でももう大丈夫、私と安全な場所に行こう」
優しい笑顔でそう言った少女、両の手に大事に包まれているのは卵だ。この卵には模様がある、ところどころに点々があって見た目は不味そうだ。
もうここには何も用事はない。そんな感じで少女は靴をはき、家を出た。すると振り向いて、お邪魔しましたと言った。それともうひとつ、返してもらうよと言った。
その言葉の意味はいったい何を意味するのか。それはそのうちわかるだろう。少女は辺りをキョロキョロ見回して誰もいないことを確認する。
しかし少女はある場所をじっと見てそこから目線を離さない。そのある場所とは、樽が幾つか積み重なっているところだ。
そこにはただ樽があるだけだ、積み重なっているだけだ。そこに何があるというのだ。少女は卵を大事に包みながら樽に向けて喋った。
「隠れなくてもいいよ、私は人間だよ、何も怪しくないよ」
そんな言い方はかえって怪しい。だからこそ少女が話しかけた相手は何も言わないのであろう。あれは危険だ、今出ていったら確実に殺される、そう思っているかもしれない。
「出てこないのならそれでいいよ、私はもうこの村から出ていくから」
そう言って少女は樽に背を向けた。そして走り出した。少女が走っていったあと、樽が崩れてそこから少年が出てきた。少年の目は赤くなっていた、泣いていたのだろうか。
少年はゆっくり歩いて家の中を伺う。家の中は何も散らかっていない、片付いているから急な来客も大丈夫だ。しかし少年はそんなことを思ってはいないようだ、少女が走っていったほうを睨んでいる。
走っていった少女は少年に睨まれたことなど知らない。それよりも早くこの場所から離れなくてはならない、そうしないと何も荒らされていなく静かなこの村に人が帰ってくる。
ドラゴンが来たけど何もしないのか、それなら俺達だけでも戦えるんじゃないか、いやいやヤツはそうやって俺達が村に帰ってくるのを待ってるんだよ、じゃあ戻らない方がいいんじゃないのか、それにしても静かねドラゴンは何をしに来たのかしら。避難先で村人たちが、そんな話をしているかもしれない。
少女は辺りを警戒しながら走っている。それは少女の身が危ないからか、それとも両手に包まれた卵が危ないからか。
ドラゴンはひらけた場所で少女の帰りを待っている。ただそこで休憩しているように見えるが、両目を動かして警戒を怠ることはない。
走っている少女の姿が見えた。その回りには誰もいないから安全だ。するとドラゴンは翼をゆっくりと羽ばたかせ始めた。砂埃がまた宙を舞う。
少女からもドラゴンの姿が見えた。ドラゴンは飛び立つ準備をしている。少女が戻ってきたらすぐに地上から離れられるだろう。
もし石や矢が飛んできたとしても、一息吹けば簡単に飛ばせてしまう。例え斧や鎌で攻撃してきても、鉄のように硬い体には傷ひとつ付けることができない。
それならばドラゴン狩りなど無意味ではないのか。傷ひとつ付けることができない相手にどうやって挑むというのだ。ただ闇雲に数で勝負しても敵う相手ではない。
ドラゴン狩りにはドラゴンで挑む。それは果たしてどういう意味なのか、ドラゴンにはドラゴンという意味だ。ドラゴンから作られた武器を使うのだ、その武器を使いドラゴンへ攻撃する、するとドラゴンに傷をつけることができる。
つまりドラゴンの力を借りてドラゴンを狩るということだ。ドラゴンの敵は人間だけではなく、仲間のはずのドラゴンも敵になるのだ。
「いたっ!」
少女に向かって何か飛んできた。少女は走りながらも振り向いた。するとそこには少年がいた。少年が少女のあとを追いながら、石を投げてきている。
ドラゴンがいるというのに少年は怖くないのだろうか。怖いものなんて打ち消してしまうぐらい、少年の背中を押しているものは何なのだろう。
「何するのよ! あんたさっき隠れてたヤツでしょ、今頃出てきて何なのよ!」
少女は少年へと大きな声でそう言った。勿論両の手には大事に包まれた卵がある。
「返せよ泥棒! それは俺が見つけたんだ! 誰にもあげない、誰にも渡さない!」
それとは箪笥の引き出しに入っていた、少女の両手に大事に包まれた卵のことだろう。少年は何故そんなに必死になる、盗まれたらそりゃ誰だって怒りたくなるが。
「これはアンタが持ってても意味ないの、だから返してもらうよ!」
少女はそう少年へと大きな声で言った。卵は少年が持っていても意味がない、それはどういう意味だ。少女がこの卵を持っていたら意味があるということなのか。
少年は何か言葉にならないものを叫びながら石を投げている。その石は一直線に少女へと飛んでいく。少女は泥棒、人の物を盗むヤツは許さない。そんな少年の声が聞こえてきそうだ。
「いくら叫ばれても、石を投げられても、アンタに返すわけにはいかないの!」
少女は曲がり角を曲がった。少年もそのあとに続く。次の瞬間少年はその場に転んだ、いや少女が足をだしてそれに躓いた少年を転ばした。
痛がっている少年、見下ろしている少女。歯を食い縛っている少年、先を進む少女。勝者と敗者のような、二人はそのように見える。
「……待てよ!」
先へと進む少女に少年が声をかける。少女は立ち止まった、しかし振り返ることはなかった。
「転がしてごめん、痛かった? それとアンタの物を盗んでごめん」
一応悪い気持ちはあったようだ。振り返らないからどんな表情をしているのか少年にはわからない。
「お前何者なんだ? ドラゴンと行動をともにしてさ。喰われないのかよ」
「食べられるなんてことはないよ、そんなことされたら私死んじゃうじゃん」
「お前らが襲ってる村や町の人達は皆死ぬような思いだったんじゃないのか! 恐ろしくて、何もできなくて、食べられるんじゃないかと思って」
「ドラゴンは怖いよね、人類にとっては憎むべき相手だよね、いなくなればいいのにね……」
「そうだよ、ドラゴンは何もかもめちゃくちゃにするんだ! 俺の親戚はドラゴンに食われた、頭や足や手が食いちぎられていたらしい」
「……」
少女は何も言わない。
「痛かっただろう、どんなに痛いのか想像なんてできない。想像してもそれはただの想像でしかない、親戚が苦しんだ痛みは誰にもわからない!」
「……」
少女は何も言わない。
「殺さないといけない! そうしなければ人間は生きていけない。ドラゴンと行動をしているお前は裏切り者だ、ドラゴンに魂を売った裏切り者だ!」
少年は力の限り叫んだ。その様子を見ていたドラゴンは一瞬下を向いた。しかし次の瞬間、翼を羽ばたかせた。
「……アンタの言う通りかもね、私は裏切り者なのかも」
少女は振り向いた。少年は少女の表情を見た、すると少年は目を見開き震えだした。少年は何を見たのだろう、それは今は少年にしかわからない。
少年が瞬きをした瞬間、そこにいたはずの少女は忽然と姿を消した。少年は辺りを見回す。しかしどこにもその姿は無かった。