前編
どこにでもあるかもしれない。
どこかで聞いた話かもしれない。
だけど読めばきっと心温まる、そんな気持ちや、お話になれば幸いです。
描いた看板をつければ、必ず、その店は繁盛する――。
そんな言われを持ってしまったひとりの男がいました。名前はジャンキー。背は2メートルくらいあって大柄で、筋肉も、たくましくあるし声もでかい。「ビッグ・ジャンキー」と、地元では呼ばれていました。
何にしてもビッグ? いいえ、そんな事はありません。
「ちょっとジャンキー。今度、ウチのお姉ちゃんの店の看板の絵、描いてよ」
「えっ」
自分の家の植え込みの花に水をやっていると、お隣に住んでいる、おチビのミニーがやって来て、いきなりぶしつけにジャンキーに頼み事をしました。
びっくりしたジャンキーは、持っていたじょうろを落としてしまい、足元が水びたし。「あ〜あ……。いつもドジね。ジャンキー」ミニーは腰に手を当ててあきれます。
(ミニーが驚かすからだよぅ……)
ジャンキーはじょうろを拾い上げ、びっしょりになったズボンの裾を払いました。
「それじゃお願いね、ジャンキー。明日、迎えに来るから一緒にお姉ちゃんの店に行きましょ」
「あ、ハイ……」
ビクッと、体を震わせてつい返事をしてしまいます。ミニーは言うだけ言うと、さっさと自分の家へ入って行きました。「はあ……。またお願い受けちゃった……」頭のキャップを外し、そのまま手に持って自己嫌悪。強く言われると逆らえない自分……。
お察しの通り、彼は気は『小さい』のです。
約束通り、次の日にミニーが迎えにやって来ました。長いボサボサになったオレンジ色の髪を左右に分け、額は隠さず丸出し。白いシャツに上から赤いワンピース。肩から黄色いポシェットをぶら下げています。
ジャンキーは、いつもと同じスタイル。デニム地の作業着のツナギ。ポケットがあちこちに付いています。今日はTシャツに、黄緑色のキャップをかぶっています。
何だか、とても対照的な2人です。
そんな2人が道を歩くと、まるで兄妹みたいに見えます。
「そうそうジャンキー。ウチのお姉ちゃんの事、説明しとくわね。見た事ある?」
「……うーんと。昔、何回か挨拶したかなぁ。よく覚えていないけど」
「そう。お姉ちゃん、都会の学校の寮暮らしが長くて、たまにしか帰って来られなかったから、会う事は少なかったかもね」
ペラペラと、ミニーは口が動きます。
昔、ミニーがまだ赤ちゃんだった時の事や、学校生活の事など、放っておくと段々と話が脱線していくのもミニーの特徴です。
ミニーの話が脱線している間、ジャンキーは昔の記憶を辿って行きました。
(恥ずかしかったから、あんまり顔が見れなかったんだ。よく覚えていない……)
声も、明るそうな声をしていたとしか、印象に残っていません。がっかりでした。
「あっ、着いたわ。あそこでお姉ちゃん、手を振ってる。お〜い、ミアお姉ちゃ〜ん!」
ぱっと、ミニーが嬉しそうに駆け出して行きました。「あ、待って!」と、急いでジャンキーも後を追いかけます。
のどかな丘の奥目にぽつんと、小さな赤い屋根の家がありました。煙突から、煙が出ていて周囲に微かなパンの香りを漂わせています。家の前で、ひとりの女の人がこちらに手を大きく振っていました。
白いブラウスに水色のロングスカート。明るいブラウンのウエーブがかった髪を後ろで束ね、ピンクのホソブチのメガネをかけていました。そして、こちらに元気よく笑いかけ呼んでいます。
「パンが焼けたよおぉぉぉぉぉ〜〜う!」
ちょっと、おとなしめの人を想像していたジャンキーは度肝を抜かれた思いです。
「初めまして! 私はミア! あなたがあの、有名な看板屋さんね!」
と、ミアはジャンキーに手を差し出し、握手を求めました。「あ、ど、どうも……。ジャンキーです……」
ジャンキーが遠慮がちに手を握ると、ミアはしっかりと力強く手を握り返します。
「今日は、わざわざ私と妹のわがままを聞いて下さって、ありがとう! お礼って、言うのかな。パンを焼いたの。ぜひ食べていって! それを食べながら、カイギしましょ!」
ニコニコニコーッ!っと、まるで太陽のようにジャンキーを明るく照らします。ジャンキーは真っ赤になって、「ハ、ハイィ……。頂きます……」と、ますます小さくなるのでした。
「イメージとしては、明るいイメージのものがいいな。花屋だし」
「はい」
「色も、黄色がいいかな」
「はい」
「あなた、ドジでしょ」
「はい。……って、……ええ!?」
ミアの質問に調子よく答えていたジャンキーは、うっかりとミアにからかわれてしまいます。すぐ真っ赤になるジャンキーを見て、クスクス笑いが止まらないミア。ミニーもあきれて、コホンと咳払い。
「まったくもう! しっかりしなさいよジャンキー! そんなんだから、結婚も出来ないのよ!」
ミニーにそう言われ、「けっ、結婚て。そんなっ。考えてないよっ」と焦りっぱなし。顔は蒸気沸騰、寸前です。「まあまあ……。ゴメンね、からかったりして」と、なだめるミア。
「……さて。だいたい看板の事は決まったし。お店の方へ出かけましょうか! ここからほんの、すぐ近くなの!」
ミアに案内されて、到着。さっきのミアの家と変わらないぐらいの、小さなレンガ造りの店でした。店の周りにはプランターが並べられ、まだ芽が出たばかり。きっと花が咲く頃には、素敵なお店になっているはずです。
「玄関の少し右手前。この辺りに看板を立てようと思うの。いいかしら」
「わかりました。この辺りですね」
ジャンキーは真剣な顔で、周囲をよく観察し始めました。持っていた手製のメジャーで、できるだけ正確な長さを測り始めます。その目つきは、さっきまでの弱気なジャンキーとは大違いです。ミアとミニーは、じっと黙ってその様子を見ていました。
ひと通り作業を終えた後、フウ、とジャンキーは息をつき額の汗を拭いました。振り返ると、ミアとミニー両方ともいません。あれ、と思って視線をのばすと、数メートル先の大きな木にもたれかかって座り、2人ともスヤスヤと寝息をたてて休んでいました。ちょうど木陰で風も涼しく、昼寝にはピッタリです。
「ふむ。それじゃあ僕は、看板にする木を切ってこようかな」
ジャンキーは次の日から毎日、午後からミアの店に行って看板を作る事にしました。日が暮れるまでの間の中で、おやつの時間だけはミアの家に行って、ミアと一緒に過ごすようになりました。
ミアは いつも焼きたてのパンを用意してくれます。ミアの焼いたパンは、どこにも負けないぐらい絶品でした。それをおいしそうに食べながら、ジャンキーはおしゃべりなミアの話を聞いています。ミアは、通っていた学校の事や、寮で過ごした友人達の事、演劇を観に行った時の事や、最近読んで感動した本の話など。全部うなずきながらジャンキーが聞いてくれるので、つい嬉しくなってミアはおしゃべりになってしまうのでした。
そして、いつもあっという間に時間は過ぎていってしまいます。
「もうこんな時間。ごめんなさい。また、しゃべり過ぎちゃったみたい……」
「ううん。楽しかったですよ。また明日、何かお話を聞かせてくださいね」
ジャンキーはニッコリ笑って、自分の作業に戻って行きました。
ミアは思います。ジャンキーの事も、もっとよく知りたいな、と。
「……ふう……。今日も暑いなぁ」
ジャンキーは持っていた軍手で、汗を拭きます。今日も太陽が元気に飛び出しています。すると、あまり見かけた事のない、紳士服に青いネクタイの若い男がジャンキーの前を通りがかりました。
「どうも、こんにちは」
「ここ、こんにちは」
紳士が挨拶をしてくれたので、ジャンキーもペコリとお辞儀で挨拶を返します。通り過ぎたその紳士は、そのまま進んで行きましたが、どうやら行く先はミアの家の方向です。
「ミアの……知り合い、かな?」
何となく嫌な予感がしました。なのでこっそり、あとをつけて行きました。
ミアの家のドアをその男がノックしたら、玄関からミアが出て来ます。ミアはその男の顔を見るなり曇った顔をして、少しうつむきました。すると今度はその男、ミアの身を自分に引き寄せると、ギュウッとミアを抱きしめてしまいました!
とてもびっくりして、慌てて背を向ける、近くの木の陰に隠れていたジャンキー。彼は、もしやミアの……? そんな思いが、ぐるぐるとジャンキーの心の中を駆け巡ります。
少し間をおいて、ジャンキーがおそるおそるミア達の方を見た時には、紳士はすでにどこかに立ち去っていました。ポツンと、取り残されたようにミアが玄関先でまだ立っています。
(ミアはおしゃべりだから、きっと明日、今日の事を話してくれるよね……?)
ミアがしばらく経って家の中へ戻って行くのを見届けた後、ジャンキーは店へトボトボと戻って行きました。
そして次の日のおやつの時間。
ミアはジャンキーの前では一度も、暗い顔を見せませんでした。隠れて見た、あの一度きりです。今日も楽しそうに、テーブルを囲んでさっき焼いた目の前のクッキーの話をしています。
ジャンキーは、ミアの話が途切れた後、思い切って聞いてみました。「あの……」
「ん? なあに?」
ローズティーを飲みながら、ミアはメガネ越しに、くるくるとした瞳をジャンキーに向けました。一瞬、心臓が跳ね上がりました、 が……。
「ミ、ミアは、その……」「じらさないで、はっきり言ってよ、ジャンキー?」
と、ミアは意地悪っぽくせっつきます。ジャンキーは決死の覚悟で言いました。
「好きな人とか……いないのかな」
やっとの思いで出てきたのが、コレでした。言ってしまった後悔がすぐにジャンキーを襲います。
「……うーんとね。……ジャンキー」
あっけらかんと、ミアが答えました。「へ……!?」ジャンキーは、はっとしてミアを見ます。
「ほんとよ」
「え……?」
しばらく2人は見つめ合ったまま、動けませんでした。
「でも私、ジャンキーと一緒になれない。……婚約者がいるの」
……
その後の作業は、いっこうに進みませんでした。なので、あきらめてハケもバケツも放り投げて、その場に寝転がりました。何だかもう、やる気を全部なくしてきたかのような気分でした。
「きっと昨日見たあいつの事なんだ……。あの紳士の男が、ミアと結婚するんだ」
いつも笑いかけてくれるミア。おしゃべりの止まらないミア。花の世話をするミア。パンを焼くミア。ミア、ミア、ミア……。
どうしよう。こんなにもミアが自分の中で大きな存在になっていたなんて。ちっとも知らなかった!
ミアは僕の事を好きだと言ってくれた、それなのに。ジャンキーは泣きたくなっていました。
『親が決めた事なの。だから、仕方ないんだ。……ゴメンね、ジャンキー』
許せないよ、ミア。……ちくしょう!
ペンキで汚れた顔を、腕で隠します。日光が眩しいし、それに……。
……
「……何サボっているのよ! ジャンキー! こんな所で昼寝して!」
突然、声がしたので腕をどけると、眉間にシワを寄せてムクレっ面のミニーが、寝転がっていたジャンキーの顔を覗きこんでいました。
「うわっ……ひどい顔ね、ジャンキー。何があったの」
ジャンキーはムクリと起き上がり、ミニーの顔も見ずにボソリと声をもらしました。
「ミアには、婚約者がいたんだ……」
しばらく、ゆっくりとした沈黙が流れます。
「親が決めた者どうしで、ミアは将来、結婚するんだよ」
段々と、ジャンキーは冷静になってきて、どこか遠くを見つめました。その先に、ミアはいません。沈みかけた太陽と、描きかけの看板と、時々吹く生ぬるい風だけです。
「ジャンキーは、ミアお姉ちゃんが好きなのね」
ミニーは、普段、見せた事がない微笑みをジャンキーに向けました。しかしさらにミニーは続けて、とても重要な事をジャンキーに伝えます。
「私達の両親は、とっくの昔に死んだの。それにお姉ちゃんに婚約者がいるなんて話、聞いた事がない。……お姉ちゃん、嘘ついてる。きっと、店を始める事と何か関係があるんだわ!」
ミニーはそう言って、すぐに走って行きました。向かうはもちろん、ミアの家。
「あ、待ってミニー! 僕も!」
ジャンキーも、慌ててミニーのあとについて走って行きました。
(嘘を ついているって? どういう事なんだい? ……ミア!)
本当の事が知りたい。ジャンキーは、そう思いました。