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「ひゃあ」
やっと声を出したかと思うと情けない奇声を上げた。
目の前には、鬼や河童などの妖怪達が屋根の上を歩いたり、電線を渡っていたりとそこらじゅうを動き回っていたのだ。
俄には信じられない光景に腰を抜かす。
「有り得ない、嘘だ、夢だ。そうだ夢に決まってる」
すると痩せたおかっぱの子どものような妖怪『垢舐め(アカナメ)』が細くて長い舌を伸ばして俺の頬を舐めた。
生暖かい感触と頬に残る唾液は今ここで起きている事は現実だと認識させるには十分過ぎるほどの刺激だった。
震える足を無理やり動かし建物の間に飛び込んだ。
光から逃げるように細い暗がりを進み続ける。
おぼつかない足取りで路地を歩いていると、ゴミ捨て場の散乱したゴミ袋に引っかかり転んでしまう。
地に伏せこのまま眠ってしまおうかとも思った。寝て朝になれば全てが元に戻ってるだろう。しかし後ろに気配を感じ体を静かに起こした。
大きな絶望を胸に抱き、ゆっくりと振り向く。
そこには灰色の羽織袴をきて一本歯の下駄を履き、黒い体毛に覆われた鋭い爪を持つ三本の指、顔は猛禽類のようで黒い羽根がはえている。『烏天狗』が立っていた。
「ニンゲン……コロス」
小さく呟くようだったが、俺の膝の震えは止まらなかった。
烏天狗は腰に差した太刀を引き抜いた。刃に月の光が反射され美しく輝いた。その青いような紫の刀身は見つめいると命が吸い取られそうな妖艶さを放っている。
「死ぬんだな。俺」
烏天狗がゆっくり近づいてきた。
もう駄目だ、もう終わりだ。まだ十六歳なのにな。人生まだまだこれからなのに。
太刀が振り下ろされた。
死んだと思った。しかし太刀の振り下ろされた場所に俺はいなかった。
もう動かないと思われた体は、自身の意思に関わらず横に転がるように避けてくれていたのだ。
「どうせ死ぬなら足掻いてみるか」
絶望とも希望ともわからない感情と共に俺は立ち上がった。
「やるしかないんだ、やってやるよ」
叫ぶように大声を上げ、自らを奮い立たせた。そして烏天狗との距離を詰めた。
たったの数メートルしかなかったのだが疲労困憊した体には数十、数百メートルに感じられた。
右腕が弾け飛ぶほど力を込め、顔面に狙いを定めて拳を突き出した。
人生最大の威力で放ったパンチに相手は数メートル飛び、後ろに倒れた。同時に力を使い果たした俺は膝から倒れ両手を着いて息を切らした。
体を横にして寝転び、恐る恐る烏天狗の方に目をやる。すると、天から糸で引っ張られたかのように立ち上がった。
「もう無理だ」
人生の幕が今降りようとしていたが、俺は妙に冷静さを取り戻していた。意外と死ぬときって何も思わないのな。
もっと色々考えるのだろうと決めつけていた。親の事とか好きな人の事とか、今俺を殺そうとしているのが妖怪だと言うことでさえ考える気が起きなかった。
ゆっくりと実にゆっくり烏天狗が近づいてきた。いや、実際はそんなに遅くないのだろうか、人間最後の一時は永く感じるってやつかもしれない。
下駄の音が徐々に大きくなる。
やっぱり死ぬの怖い。
体のすぐ横に烏天狗が来ていた。今度は逃がさないと言わんばかりに鋭い眼光を向けてきた。
いよいよ死ぬと思った。その刹那、黒くて速い何かが烏天狗をぶっ飛ばした。
烏天狗は少し離れた場所に片膝をついた状態だった。そして、今まで俺の命を奪おうとしていた者がいた場所には俺の命を救った者が立っていたのだ。
後ろ姿でよくわからなかったが、それは俺と同い年くらいの女の子であった。だが普通の女の子では無いことは明白である。
まずさっきのは明らかに人のスピードじゃなかった。それ以上におかしいのは、こんな状況にもかかわらず手足には猫の手を模したブーツとグローブをしていること、外側に毛先が跳ねた癖毛が特徴の頭には猫耳があること、腰からはえた二股の尻尾から黒猫のコスプレにしか見えなかった。
質問しようとすると、それより速く彼女は走り出した。そして片膝ついてる烏天狗に回し蹴りを放ち、怯んだ隙に連続でパンチを浴びせた。殺されそうになっていた自分が悲しくなるほど一方的に押し続けていた。
彼女の右の猫手の三本の指から長い紫の光の爪が伸びると、それを使い斬りつけた。
すると烏天狗は光になって消えた。
「あいつ死んだのか」
本来はお礼を言うべきなのだが何故か烏天狗の生死が気になった。
「生きてる。禊をしただけ」
聞き慣れ無いキーワードである禊ついて詳しく聞こうとしたが、彼女はすぐ言葉を続けた。
「ここはあぶニャ……、あ、ぶ、ニャ……ここは危険だから早く帰った方が良いよ」
「君、何者なの」
体を起こした俺はやっと質問できた。
「ボクのことはどうでもいいんだ。急いで帰って」
「だから、何者何だよ」
めげずに質問した。
「もう、ニャに者でもいいでしょ」
彼女は語勢を強めると、あっという間に闇へ消えてしまった。
一体全体どうなってるんだ。百鬼夜行を見て、妖怪に殺されそうになって、あげく変な女の子に助けられて……。
もう考えるのは止めよう。俺は家に向かって歩き出した。