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鬼ん子  作者: ことせき
8/8

終わり

 鬼ん子は、半ば呆然としながらも、己の家に帰ってきた。

 それはぼろぼろのあばら家だった。

 ささくれ立った床板に、小さな筵が敷いてある。そこが、彼女の寝床だった。

 ごろりと横たわると、懐かしい固い感触が背中を受け止める。


 天井に向かって鬼ん子は両手を伸ばした。

 そこで握り拳を作り、目の前に持ってくる。

 ゆっくりと開いた掌からは、何も出てこない。


 鬼ん子の小さな瞳から、ぽろりと涙がこぼれた。

 彼女はようやく実感したのだった。

 己のものだと思っていたものは、何一つ、己のものではなかったことを。だから、彼女の意思と関係なしに、彼女はすべてを失った。


 白魚も、太郎も、旅人も……自分を好きで、関わってくれたわけではない。ただ、情けをかけられた。それだけの話だった。当然だ。自分には、人を引き付ける魅力など備わっていない。備えようともしてこなかった。


 彼女は人間が嫌いで、人間を拒否してきた。分かり合うことを拒んできた。

 一方的に、わかってもらうことだけを望むのは、子供だ。白魚たちは、鬼ん子と対等な人間として接していたわけではない。

 醜く哀れな鬼の子を、気の毒に思ってくれたのだ。


 ぽろぽろぽろ、と涙がこぼれた。


 自分は醜い。姿以上に、心が醜い。健康な体なのに、成長することを拒み、年をとってもいつまでも愛玩されることを望む。それが化け物でなくて、なんだというのだろう。


 醜い鬼の子、それは自分にふさわしい姿だったのだ。


「村を出よう…」


 涙と一緒にこぼれた言葉は、口にした途端身に染みわたるような気がした。


 この、小さく、狭い村を出よう。

 もっと、沢山の人に会おう。

 嫌われて、避けられて、それを受け入れよう。


 それは、きっと、人として成長するのに、必要な過程なのだ。そしていつか、鬼ん子が人間になれた時、この醜い身体ごと、自分を受け入れてくれる場所があるかもしれない。

 本当の意味で、自分を愛してくれる人がいるかもしれない。


 それは、この暗くて冷たいあばら家で芽生えた、小さな希望だった。




***



 それからすぐに、白魚が太郎とよりを戻したことが部落で噂になった。ぼろぼろの風袋だった白魚が、再び美しい姿をして、太郎と一緒にさっそうと町を歩くようになったからだ。


 白魚は、少し変わったようだった。


 質素な服を好み、あまり賑やかな所を好まなかった彼女が、華やかに着飾るようになった。騒がしい街中や娯楽場を出歩くようになった。

 何を考えているのかわからないような、神秘的な瞳も、今は人間らしい色に満ちている。

 もう太郎に対して『水が恋しい、湖に帰りたい』と我侭を言うこともなくなった。贅を楽しみ、美しく輝いている。


 鬼ん子は、彼女はもう魚ではないのだと思った。人間になったのだと思った。人間になって、そして幸せになったのだと。

 村人は、彼女が高慢になったと言っていた。それはとても人間らしいと鬼ん子は思った。


 白魚が村に帰還するのとほぼ同時に、旅人も再びやってきていた。

 白魚が太郎の家に帰ったことを知ると、彼は、村内に居を構えることにした。

 小さな家だが、清潔で、きちんとしているようだった。


 それを横目で見ながら、鬼ん子は村を立つ準備をしていた。



***



「ここを出るのか?」


 出立の前日、鬼ん子は村人の家に挨拶に行った。

 明日いなくなることを告げると彼は一瞬目を丸くして、そしてすぐに頷いた。


「それがいい。様々なことを見て、聞いて、経験してくるといい。世の中を、知れば知るほど、自分の事も、またよくわかるようになるはずだ」


 理知的な眼差しで言う旅人を、鬼ん子は見返した。


「あなたは、もう旅には出ないのですか」


 旅人が頷いた。


「私の求めるものは、もう外にはないんだ」

「白魚は、太郎のものですよ」

「彼女は誰のものでもない」


 旅人は笑う。


「彼女がここに戻ってくるかどうかは、誰にもわからない。だが私は自分を知っている。私の居場所は、彼女の他にない。それを知っている限り、私はもう旅には出られない」


 差し出されたお茶を手にしながら、鬼ん子は目線を外す。


「……あなたが好きです」


 優しい笑顔のまま、旅人は口を開いた。


「ありがとう。私は白魚が好きだ」


 鬼ん子はとても胸が痛かった。

 けれど、恋という感情を教えてくれた旅人に対し、感謝の気持ちは絶えなかった。

 お茶の入ったカップをテーブルに戻すと、深くお辞儀をして、鬼ん子は旅人の家を出た。



***



 まだ暗いうちに村を出ようとしたその時、視線を感じた鬼ん子は背後を振り返った。


 遠くに、車が止まっていた。その開いた窓から、白魚の顔が覗いていた。睨むようにこちらを見ている。きっと、奥の運転席には太郎がいるのだろう。


 白魚は、化粧をして、着飾って、まるで別人のようだった。

 それでもそれは、白魚に違いなかった。


 ずっとずっと、鬼ん子を、慈しみ、姉のように愛してくれた、あの白魚だった。


「白魚!」


 思わず叫んでいた。

 白魚はふいっと顔を逸らした。


「白魚、白魚! 白魚!」


 鬼ん子の目から涙が溢れてきた。


 白魚は隣席の太郎に何事かを言ったようだった。すると、車が動き出した。

 冷たい横顔を見せたまま、白魚は遠のいていく。


「白魚! 白魚! 白魚~~~~~~!!!!」」


 会いたかった。

 好きだった。

 ありがとう。

 幸せになってほしい。


 何一つ言葉にできない。ただ、彼女の名を口にすることしかできなかった。

 白魚はもう鬼ん子を一顧だにしない。

 すでに彼女の姿は見えず、どんどん遠ざかる車しか見えなかった。豆粒のように小さくなるそれを、鬼ん子は泣き叫びながら見送っていた。


 会いに来てくれた。

 見届けに来てくれた。

 ありがとう。ありがとう。


 白魚の名を呼びながら、鬼ん子は、長い時間、その場を動くことができなかった。



 そして日が高く昇る頃、醜い鬼の姿をした少女は、ようやく村から姿を消した。



読んでくださりありがとうございました。

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