受容と拒絶
自室のベッドに腰掛けながら、太郎は虚空を睨んでいた。
その静かな様子とは裏腹に思考は頭を乱舞していた。
復讐だったのかもしれない、と思った。
鬼ん子を己の恋人にしたのは、白魚に対する復讐だったのかもしれない。
俺は鬼ん子を、白魚の代わりとして扱った。贅を尽くした持て成しをして、あの鬼の子が目を白黒させて喜ぶ姿をみるのは、気分がよかった。
だが、純粋に与える喜びを感じていただろうか?
どこかで、もうこんな生活は出来なくなるであろう白魚を、ざまあみろと嘲笑っていた気がする。
今日、久々に彼女の姿を目にした時から、太郎は胸がかき乱される思いだった。あの白魚の泣き顔が、眼裏に刻み込まれたようにありありと浮かんでくる。
彼は爪を立てて頭をかき乱した。
白魚を求める心を、取り除く事は出来ないのか。
まるで呪いだ。恋という呪いにかかっている、俺は本当に愚かな男だ。
何度、白魚の我儘を許してきた?
結局は今回も、過去と同じようにあいつを許したくなる衝動に駆られている。
だがもう、それも仕方がない事のような気がしていた。
賢しらで美しい女である以上に、太郎には白魚を求める理由がある。
笑いあった日。
罵りあった日。
わかりあえた日の夜。
共に過ごして来た年月。
思い出の数。
それらの記憶が彼を縛り付けていた。
互いに傷つけあいながら、それでも手を取り合ってここまできた。
長い時を一緒に過ごして、彼の行動範囲のほとんどは白魚との思い出に塗りつぶされている。
もう、これだけの情熱をかけられる女は現れないだろう。この先どんな美女が現れても、きっと昔のように夢中になれることはない。
俺はとことん疲れた。また一から、あのとてつもなく面倒くさい愛の確認作業をやり直すなどごめんだ。
こんこん、と戸を叩く音を耳が拾った。
「入れ」
低く唱えると、扉が開く音と共に足元に影が伸びてきた。
顔を上げると見慣れた恐ろしい面がそこにあった。
太郎の口元に笑いが浮かぶ。
「……お前か」
太郎が手まねきをした。
幼子のような素直さで、鬼ん子は彼の隣りに座る。
二人とも、互いの顔を見ようとはしなかった。
沈黙が落ちる。
やがてその空白に色を塗るような問いが室内に響いた。
「……白魚を、許すのか?」
太郎の声だった。
鬼の目が大きく開いた。
「お前はあいつが好きだったろう。あいつを独占したかっただろう。……白魚の恋人である俺を、消えてしまえばいいとすら思っていた筈だ」
鬼ん子の小さな身体が、動揺するように揺れた。
「……だがお前は知らない。あいつが本当は、とても頑固で激しい女だという事を」
彼は思い出すように目を閉じた。
「お前は白魚の、優しい姉のような面しか知らない。穏やかな、包み込むような愛情をくれる部分しか知らない。だが本当は、白魚は感情に大きく振れ幅のある、不安定な女なんだ。あいつの、怒り、悲しみ、憤り…一切の負の感情を受け止めてきたのはこの俺だ」
淡々とした声だった。
太郎の心からは、不思議と白魚に対する憎しみが消えていた。ただ穏やかな情が胸底を河川のように静かに流れていた。それは諦観にも似た、白魚に対する愛だった。
「それらの感情の受け皿がなくなれば、あいつはどうなると思う。お前に許容できるか? あの回転の速い頭で矢継ぎ早に罵声を浴びせられるのを。お前は無能だと、繰り返し叫ばれる事を。きっと出来まい。俺は知ってる。お前の好きな白魚は、俺の恋人である白魚だったんだ」
太郎は細く目を開いた。
その静かな眼差しを、まっすぐに鬼ん子へと向ける。
醜い少女は、青ざめて震えていた。
それを目にしても、もう以前のように心動かされる事のない自分に気付いて、彼は悲しげに眉尻を下げた。
「何も知らない…愚かな鬼の子。醜く哀れな鬼の子よ。俺はもう、お前を嫌ってはいない。だが許してくれ。俺は白魚を手放せない。そして、どう考えても俺はお前を愛していない。失せろ。ここはもう、俺と白魚だけの空間だ」