憎しみ
鬼ん子は白魚が戻ってきたことに喜んだ。やはり自分を置いて村を出た事を彼女は悔いているのだと。
『白魚が太郎の家を訪ねてきたのは、自分に会いに来たのに違いない』
白魚に会いたかった。会ってまた長く長くお話がしたいと思っていた。旅人を連れ去ってしまったことに大して、きっと白魚は自責の念を感じていることだろう。自分はそれを癒してやらねば。気にしなくてもいいのだと、そう言い聞かせる役目は自分にしかできないのだと鬼ん子は確信していた。
確信は、行動へと追い立てた。鬼ん子は白魚の家まで足を運んだ。
だが、扉を開けて出てきた白魚の顔は冷たく凍てついていた。何しに来たの、そう感情のない無愛想な声で問われると、鬼ん子は自分が何のためにここに来たのかを話せなくなってしまった。目の前の白魚は、鬼ん子と対峙して何の感慨も覚えてはいないようだった。鬼ん子の慰めを必要としていないように見えた。
鬼ん子は自分の中の歯車が食い違っている事を、少しずつ感じ始めた。
***
白魚は余裕がなかった。今まで当然のように愛情を与えてくれた存在に、初めて拒まれた事で自我を見失っていた。大きな喪失感を埋めたのは悲しみと自分に対する憐憫のみであった。太郎にどれだけ甘えていたのか、どれだけ頼っていたのかを、彼を失って初めて白魚は実感していた。
そこへ、鬼ん子はやってきた。
なぜ来たのだ、という苛立ちが勝った。今は自分のことしか考えられなかった。自分を保つので精一杯の状態だ。阿呆のように突っ立って白魚の言葉を待っている鬼ん子の姿を見ているとなぜだか無性に許せない気がする。
『なぜこの子はいつも愛情を享受しようとするだけで自分から何かを供給しようとしないのだろう』
そういう無知蒙昧な存在が、太郎から与えられた上等な着物と装飾品で着飾っている様子は白魚の過敏な神経を逆撫でした。ぼろぼろの旅着を着の身着のままの自分は今や浮浪者のような風袋だというのに。
「何しにきたの」
突き放すような声音で言ってやると、一瞬鬼ん子の表情が白くなった。そして、困惑するように目を白黒させながら口を開閉する。凍てついた感情の底で白魚の嗜虐心がちらりと燃えた。自分が辛いときに他人を傷つけるのは楽しい気がした。
(お前も、信じていた相手から裏切られる思いを知ればいい)
白魚の恋人がこの醜い鬼の子に奪われたという事実が、彼女の心に黒い暗幕を下ろしていた。今まで目を背け続けてきた、自分の中の他人に対する嘲りが、鬼ん子を前にして露わになりつつあった。
自分が魚だという事も、もって生まれた美貌や英知も、自分が慈しまれ愛されている間は白魚にとって特にどうということもないただの事実だった。そんなものに価値を置かなくとも、きちんと自分を愛してくれる存在がいたので重要視する必要などまったくなかった。だから、自分が美しかろうが賢かろうが、何の興味も払わなかった。
だが、今自分を支え守ってくれる太郎という恋人を失って、白魚は自分の基盤を失った。失ったということは、今の自分は何も持っていないということだった。すると今まで価値を置くこともなかった、美貌や賢さという要素に、自己の存在価値を求めるしかなくなった。自分を保つためにはそれらをさも世の中で一番大切で必要とされる要素であると吹聴し、また自分もそう信じ込まなくては行かなかった。
だが、それらの特徴は他人と比較して初めて成り立つものだ。他者と比較し、自信を持つということは、白魚に初めて優越感を芽生えさせることになった。そして、初めて他人を見下すことを覚えた。目の前の、醜く愚かな鬼の子に、白魚は自分が負けるとは思いたくなかった。