純粋と無知
白魚は苦しかった。
旅に出てまだ二日目だったが、その華奢な身体は思ったよりも過酷な生活に耐えられないようだった。村を出た事が一度もなく、村にいる間は太郎に守られていた白魚は外の世界など初めてのことだった。
旅人は白魚を愛していた。世界中を捜し歩いても、白魚のように賢く美しい女性はいなかった。そして、外の世界を知らないこの若い娘は、とても純粋なところがあった。
「苦しいです、休ませてください」
「駄目だ。この森は夜になると獣が集まってくる。あと少ししたら旅の商人が泊まるための小屋があるはずだ」
白魚は知らなかった。旅人はとても優しく接してくれるが、彼との生活はとても自分に優しくなどしてはくれないと言う事を。
旅人がどんなに白魚を丁重に扱おうとしても、『旅をする』という事は命をかけて各地を廻るものなのだ。だから、一緒に旅をする相手がいかに白魚を愛していようと、白魚にとっての旅の厳しさは皆同じなのだ。
粗末な小屋にようやく辿りつき、小さなベッドに白魚は横になった。
白魚は、ごわごわの硬い毛布を自分の身体に巻いた時、ふいに太郎の事を思い出し涙が出そうになった。
太郎は、白魚の為に最高級の寝具を用意してくれた。スプリングの利いたマットに、ふわふわの毛布をわざわざ取り寄せてくれたのだ。白魚はそのベッドでしか眠った事が無かったので、自分の今の状況がとても惨めなものに思えた。
白魚は、魚だった。魚だったので、太郎との生活は苦しかった。自分を理解してくれない太郎を、何度も憎いと思い呪った。けれど、今の状況はどうだろう。旅人は自分のことを理解してくれる、が彼は理解する以外に何も出来ない。
白魚はもともと魚だったので、人間の生活は苦しかった。だから太郎を呪った。だが、太郎は少なくとも、人間としての生活は極上のものを与えてくれた。白魚が苦しい苦しいと喘いでいた毎日は、まだマシなものだったのだ。
「……太郎、太郎」
白魚は太郎を想って泣いた。自分がいかに彼に寄りかかっていたか、太郎と離れてようやく知った。人間として不完全な自分は、太郎がいないと生きていけないのだと悟ったのだ。
旅人は、床の上で寝転がりながら、白魚の啜り泣きを聞いていた。焼け爛れるような焦燥が胸に広がった。
賢く美しい娘は、純粋で無知だった。
旅人は彼女の恋人に、男として嫉妬した。知識や経験や理解力で、太郎に負けるとは思わなかった。だが白魚が今求めているものは、知識や経験などで補えるものではなかった。長年、太郎に愛されてきた白魚は、贅を尽くした生活でしか生きていけなくなったのだ。自分には、それがない。
まんじりともせずに夜が明けた。
旅人はいつの間にか眠っていた。目を覚ますと、白魚の姿が消えていた。ベッドの上に謝罪の言葉だけがのせられた紙が置かれたままで、毛布の下は空だった。
『ごめんなさい』
その流麗な文字を見て、旅人は立ち上がった。
旅人は世界を広く知っていたので、自分が愛せる女が、白魚以外にいないという事を知っていた。諦めるには、美しすぎる娘だった。