蠢動
白魚は、もともと水に住む妖精だった。だからこうして陸に上がっている時も、雨の降る日が好きだった。雨音を聞くだけで故郷の湖の中に還っているような、そんな安心感を覚えていた。
白魚は常に飢餓状態にあった。水のない生活は乾きすぎていて、砂を噛むような毎日を過ごしていた。それでも汚染された湖ではもう生きてはいけないので、歯を食いしばって地上の生活に耐えていた。
白魚の恋人である太郎は、白魚の生活を楽にしてくれるものをたくさん与えてくれた。だが同時に太郎は地上に住む者であったので、その存在自体が白魚にとっては乾いた砂のようなものだった。
太郎は白魚を人間として最上級の扱いをしてくれた。だが白魚は人間ではなく魚として生きていきたかった。白魚は何度も太郎に訴えた。
「水が恋しい、水が恋しい」
だが太郎は人間であったので、人間を扱う術しか知らなかった。太郎は人間であったので、白魚の水に対する渇望をまったく理解できなかった。コップ一杯の水を与え、なぜそれで満足できないのかと白魚を責めた。
二人は何度も口論した。水の中の住人と陸上で生きる人間は、互いを理解し会おうと何度も何度も話し合ったが、妥協という形でしか次へ進める道はなかった。二人は何度も何度も妥協して、苦しみながら共に歩んでいた。それは、長い長い時間だった。
その、長い長い時間の追求に、ある日やってきた旅人はたった一時間で答えを出した。
旅人は、広く世界を知っていた。知っていたからこそ、白魚の飢餓や苦しみを理解できた。理解したうえで白魚を誉めた。今までよく頑張ってきたと、白魚の努力を大いに認めてやった。
それは、白魚にとって初めての経験だった。
白魚に愛されている自信のない太郎は、白魚の努力を認める余裕がなかった。白魚よりも自分のほうが、より苦しんでいると思い込んでいた。白魚のわがままを理解しようと努めた事、何度も罵声を浴びせられた事を心のどこかで根に持っていた。だから白魚が同じように太郎を理解しようと励んでいることに、一度も気づいたことがなかった。
白魚は涙した。初めて自分を認めてくれた旅人に、精一杯の感謝をした。そして白魚は、旅人の傍に居る事をとても居心地がいいものだと感じた。
鬼ん子は、いつも一人だった。鬼ん子は生まれたときから、忌み嫌われていた。鬼ん子の顔はそれはそれは恐ろしく醜いものであったので、村人は皆、鬼ん子と出会うと目を逸らし避けて通っていった。
鬼ん子は自分の顔を、さほど恐ろしいとは思わなかった。鬼の顔をしていても、父の顔を少しだけ映し出しているようだった。村人は鬼ん子の顔を嫌ったが、鬼ん子は自分の顔を嫌わなかった。鬼ん子は人間が好きではなかったので、それでも特に支障はなかった。
だが、鬼ん子は、初めて人を好きになってしまった。
ふらりと村に立ち寄った旅人は、鬼ん子を忌み嫌ったりなどしなかった。むしろ、鬼ん子の顔を称えてくれた。伝統的な鬼神の血を汲んだ立派な顔だと、旅人は誉めてくれた。
旅人はさまざまな村の伝承に詳しかったので、鬼の由来を知っていた。だからこそ鬼ん子に、正確で正当な知識を与えてやった。卑屈になることはないと、胸を張っていきなさいと、鬼ん子の背中をなでてやった。
鬼ん子は、旅人の優しさに胸が震え、旅人の言葉に父を見た。
「旅のお供をさせてください」
鬼ん子は、お団子を三つと、銅貨を三枚風呂敷に入れて、旅人の下までやってきた。母はとうに亡くなって、鬼ん子は一人で生きていた。だから旅に出るのに、鬼ん子を引き止める者は村には誰も居なかった。鬼ん子は旅人と離れたくなくて、一緒に付いていこうと決意した。
だが、旅人は優しい笑顔で首を振った。
「私の旅の相棒は、この先きっとたった一人だ。それが誰だかはわからない。でもそれは、残念ながらお前じゃない」
鬼ん子は、とても悲しい顔をした。ポロポロと涙をこぼしたが、旅人の決意は変わらなかった。旅人の真意を汲み取って、鬼ん子は身を引いた。
「明日私は出立する。できれば一緒についてきてほしい」
突然の旅人からの申し出に、白魚はとても戸惑った。白魚は鬼ん子が旅人を好いていることを知っていたし、旅人は白魚に太郎という恋人が居ることを知っているはずだった。
美しい顔を歪ませて、白魚は一晩悩んでいた。旅人を選ぶということは、太郎と鬼ん子の二人を裏切ることになる気がした。だが白魚はかつてないほど、旅人の隣を居心地よく感じていた。まるで水の中に還ったような、そんな気持ちを味わっていた。
翌朝に、白魚は決意した。身の回りのものを簡単にまとめると、旅人の泊まる宿屋へ向かった。




