胡蝶の夢
実はこの話、『肌をなでる風』の『裏話』第3弾なんですが、
あえて『裏話』と表記しませんでした。
シリーズに関係ない普通の短編としても、楽しめるのではないかと思ったんです。
【登場人物】
良介、新人会社員
千春、良介の恋人。先輩上司でシングルマザー
千尋、千春の娘5歳。
【キーワード】
記憶は、現実と夢の間に存在する――。
それはまるで、記憶のような夢だった。
それはまるで、夢のような記憶だった。
そして確かに俺は、現実の中でそれらを見ていた。
~~~
指の間を黒髪がすり抜ける。
そのやわらかさを確かめながら、俺は昨日見た夢の話をした。
蝶を追いかける夢だ。
「――そうやって必死に走るんだけど、全然追いつかなくてさ」
「結局、捕まえられなかった?」
「うん。子供の頃、虫取網をもって蝶を追いかけた覚えもないのに、何であんなにはっきりとした夢を見たんだろうって不思議に思った」
腕の中で、彼女はくすくすと笑った。
「夢は夢じゃない。そんなふうに思うの、良介らしいわ」
「そうかな?」
「だって、ふつう真面目に考えないわよ、そういうこと。不毛すぎるもの」
俺も笑った。
「そうだね。夢は記憶の整理って言うし、もしかしたら覚えてないだけかもしれないし、ドラマとかを見ただけかもしれないしね。でも本当に、これは自分の記憶なんじゃないかって思うくらいはっきりしてたんだ」
「今はその夢、ちゃんと区別ついてる?」
「それがね――」
そのとき、襖の向こうから泣き声が聞こえた。
千尋が泣いている?
「ママぁ」
「ちぃ?」
「どうしたんだろ?」
起き上がろうとした俺を大丈夫と制して、千春は寝衣を整えて娘の様子を見に行った。
俺は天井を見つめた。灯りにつけられた紐が、下に長く垂れているさまが懐かしかった。
千春と千尋の二人の住む部屋は、かつて俺が母と住んでいた部屋と外観が似ていた。玄関入ってすぐにダイニングキッチンがあって、その奥が居間、右手が和室、そしてベランダ。
少し狭いが、子供と二人で住むにはちょうどいい広さの簡素な部屋。
俺がここに泊まるときはいつも三人で並んで眠るのだが、今夜は千尋が和室で一人寝るのだと言い張った。話を聞くと、どうやら保育園の友達が、一人でも眠られることを自慢したらしい。
『ちぃもできるもん! オトナだもん!』
……結構、無茶だと思った。千尋は夜闇が大の苦手なのだ。
俺は止めたのだが、千尋は宣言どおり実行に移した。だがやはり眠られず、寝息が聞こえてくるまでずっと母親である千春がそばにいた。
千春はどうやらこうなることを初めから予期していたらしい。けれどあえて千尋を止めなかったのは、たとえ何を言っても娘が頑なにやるだろうことはわかっていたからだ。
まだまだ俺は、千尋のことをわかっていないみたいだ。
母親はすごいと、思ってしまった。
襖を閉めて、彼女が布団に潜る気配がした。
俺は薄目を開けた。
いつの間にか眠っていた。
「ごめん、起こしちゃった?」
横になり、やわらかな小声で彼女は囁いた。
俺は微笑を向けた。
「ううん。千尋、どうしたの?」
「怖い夢を見たって泣いてたの」
私が死んだ夢、と千春は言った。
え、と思わず俺は聞き返した。
「死んだ夢?」
俺の驚きとは反対に、彼女は何でもないかのように、ふふと笑った。
「真顔で聞かないで。単なる夢よ。あの子、時々ああやって泣くの」
「よく見るってこと?」
「うん。……これは、私が子供の頃に聞いたことだから曖昧なんだけど、誰かが死ぬ夢を見るのってその誰かに対して自分が依存してるからなんだって。甘えたいとか離れたくないとか……なんかそういうことだったと思う。大事にしていることの表れ――みたいな感じかな。だから何も心配はいらないの」
「ほんとう?」
変に心細さを感じた。形のない不安に胸の奥がざわついた。
彼女は一瞬、きょとんとした顔で俺を見た。それから微笑んで、俺の髪をなでた。
俺はされるがままになっていた。
彼女の手があったかい。
くすぐったい。
「わからない。私も昔よく見たことがあるんだけど、私、親と合わないから……。だから、真実味はゼロね」
一瞬、その笑顔が哀しげに見えた。
俺は千春を抱き寄せた。
「……今、夢を見てた気がする」
「どんな夢?」
「千春さんが俺を抱きしめる夢」
そう言って、俺はやわらかな髪に鼻を埋め、清らかな甘い匂いを嗅いだ。
ふんわりと心がやさしくなる。
愛しいと思う気持ちが、心を溶かしていく。
腕の中に彼女がいる。
確かに今、ここにいる。
「すごく幸せな気分だった。風が吹いて冷たくなった俺の体を、後ろから抱きしめてくれて、千春さんって温かいなって思った。……俺は、千春さんの手を握ろうとした。でも触れたら冷たくて――俺の手だった」
「……目が覚めたら自分の手を握ってた?」
「うん。それでも、不思議と悲しくなかったんだ。逆に安心していた。温かいのと冷たいのと、その温度差に安心してた。ああ、これは夢なんだって……」
瞼が重かった。
気が付いたら、彼女が顔を覗き込んでいた。
「良介、もしかして寝惚けてる?」
俺は首を振った。
「うそ。すごく眠たい目してるし、言葉がなんか素直すぎ。あ、それはいつものことか」
くすりと笑った彼女の声に、耳朶が甘く痺れた。
狭い視界に彼女の唇。
もっと、その声を聴かせてほしい。
「それって、こどもっぽいってこと?」
「可愛いってこと」
額に、花びらが触れるほどのキス。やわらかい彼女の唇。
やはり恥ずかしかった。ただされるだけなのはくすぐったい。
でも、感じていたい。この温もりを。
俺は一度瞬きをした。
頭がうまく回らなかった。
視界が霞む。
体がだるい。
でもとても甘くて――
睡魔が意識を奪っていく。
赤子が乳を求めるように、俺は無意識にその唇を探していた。
「良――」
キス。
熱い吐息を絡ませ、密やかに想いを交わすのではなく、
浅くもなく深くもなく、ただ愛を告げるように温もりを重ねた。
その瞬間、そっと彼女の中で呼吸する自分を感じた。
頭の後ろがゆっくりとなでられている。
愛撫は子守唄のようにやわらかな眠りを誘う。
本当は眠りたくないのに。
どうして抗えないんだろう……?
「おやすみなさい」
閉じた瞼の裏で声を聞く。
腕の中の温もりを、離したくないと抱きしめる。
――そこで、意識は途切れる。
少し手直ししました。
読んでいただきありがとうございました。
この短編は、「現実」なのか「夢」なのかを曖昧にしています。
ただ1つ言えるのは、これは確かに良介の「記憶」であることだけです。
いろんな感想があるかと思いますが、解釈はお任せします。
次回、『裏話』第4弾は『長き夜』連載です。
よろしくお願いします。
追伸
改定前の『胡蝶の夢』を、どんぐりさんがアレンジしてくださいました。
私がイメージする「良介」でない点もありますが、それは作者が違うので仕方のないこと。
私は「男性視点」がうまく描けません。
それを補うというか、こういう解釈も『胡蝶の夢』ではアリだと思ったので、どんぐりさんのほうで載せていただきました。
興味のある方はぜひ。