Episode 2
自宅の書物庫にある両親の本棚から一冊の不思議な本を手にした千秋
その本には一体何が書かれているのだろうか―
書物庫が片付いた時には既に19時を回っていた。台所からは夕食の良い匂いが漂ってくる
今夜の夕食はなんだろうな、と考えながら千秋は廊下に放り出したままの鞄と例の西洋書を手に2階の自室へと向かった
部屋の明かりをつけ、机の横に鞄を置いた。いつもならこのまま鞄から大学で配られたプリントなどを出して目を通すのだが今日は違った
例の西洋書を机の上に置いて改めてまじまじと眺めた。表紙の見た事も無い文字を除けば何の変哲も無いただの本だ
ハードカバーのようで、表紙はしっかりとしている。そして少しだが光沢もある
そっと指先で表紙の文字をなぞる。金色の文字の部分は少し窪んでいて、どうやら彫ってあるようだった
そしてそのままそっと表紙を開いた。ただ本を見るだけなのに、見てはいけないものが書いてあるような気がして千秋の中に少しの緊張が走った
意外やその本の中身は白紙であった。千秋は少し表紙抜けして、脱力した。
なんだ、ただのノートか?何か驚くような事が書かれている事を期待していたので少しがっかりはしたが、その反面何も無かった事に千秋は少しほっとしていた
しかし一点気になる事があった。ノートと思わしきこの本は一切の日焼けをしていなかった
上質な紙はまるで買いたての本やノートを連想させる。確かに両親の本棚には本が日焼けをせぬようにと布を被せてはあるが、それでも長い年月は両親の愛読書を薄っすらと小麦色に変えていた
事実先程この本を抜き取る時に、隣の文庫本が薄っすら日焼けをしている事に千秋は気付いていた
けれどそんな事はすぐどうでも良くなった。捲っても捲っても白紙のページに千秋はもうすっかり好奇心を削がれていたからだ
(何だか拍子抜けだな…)
あの違和感は両親の本棚にただ変わった本が入っているから感じたものでは無かったはずだった
千秋は確かにこの本自体から違和感を感じたのだが、今ではその違和感は気のせいだったような気がしてきた
書物庫に戻そう、そう思いながら本を閉じようとした時に後半のページに栞が挟まれている事に気付いた
どうせそのページも白紙なのだろうと思いつつも何かを確かめるようにその栞のページを開いた
千秋は目を見開いた。白紙だろうと思ったそのページには絵が描かれていた
絵は何処か西洋の上品な家の部屋と言った感じだった。赤い絨毯が敷かれており、部屋の壁には草原のような風景画が1つ飾られている
家具らしい家具は殆ど無く、正面には部屋の端から端まである大きな本棚が聳え立っていた
窓も無いその部屋の真ん中には背を向けて座る一人の少女が描かれていた
黒のワンピースに緋色の長い髪。行儀良く座っているその少女の背中に、千秋は何か寂しげな孤独感のようなものを覚えた
その孤独感を千秋は知っている。小さい頃に味わった事がある。そしてその孤独感は今でも千秋の心を蝕んでいる
お前も俺と同じなのかな、と虚ろな表情のままそっと少女の絵を撫でた。千秋の手が少女の頭の部分を覆った
絵相手に何を感傷に浸っているんだろうな俺は―
数秒そうした後、そっと絵から手をどかした。その時千秋はぎょっとした。背を向けて座っている少女は顔を少しこちらに向け、千秋を見つめる形になっていたのだった
驚きのあまり本から手を離してしまった。どさりと鈍い音を立てて本は床に落ちた
少女の絵はまだ千秋を見つめている。千秋は何故だか視線を逸らせないでいた。冷や汗がじわりと額から滲む
どくんどくんと脈が速くなるのを感じ、自分が今恐怖しているのだという事を理解した
少女の絵は更に動き、椅子から腰を上げてこちらへと歩み寄ってきた
揺れ動く四肢。靡く髪。冷酷なまでに冷たい視線。その姿はもはや絵ではなく、生身の人間が本の中にいるようだった
少女の絵が一番近づいた時、本は一瞬光を放った。突然の事に驚き、千秋は思わず目を伏せた
ふわりと風が千秋の髪を撫でた。心地の良い金木犀の香り。そっと目を開けると、そこには絵の中の少女が立っていた
いつの間にか尻餅をついていた千秋は、その少女に見下ろされる形になっている
お前は誰だ―
そう言いたくても、非現実的な事への恐怖で言葉が発せないでいた。
必死に口を動かそうとしている間に、少女は千秋の方へと近付き顔を覗くようにしゃがみこんだ