Episode 1
誰にだって当たり前に家庭がある
両親がいて、兄や姉、弟や妹、祖父や祖母。そしてそこに自分がいる
構成こそ家庭により様々ではあるが家庭というコミュニティは人間にとって必要不可欠である。その家庭というコミュニティが人に与える影響は、その人の人生を左右する程だと言っても過言では無いだろう
夜四季家には両親が居なかった
千秋が12歳の時だった。出張でパリへ向かう際の航空機墜落事故により亡くなったのだった
それ以来夜四季家の生活は長男春樹の収入によって今まで守られ続けてきた
春樹は作家だった。だが相次いでベストセラーを世に送り出したり、はたまたドラマや映画化になったりする程の著名人とは程遠いしがない1出版社の専属作家であった
春樹は両親の事故当時まだ幼かった千秋と夏樹の親代わりをする事を心に決めていた
両親の残したローンの残る中古住宅で、三人は今も暮らしている
午後18時、玄関の扉を開けると、廊下の奥の書物庫として使っている部屋から大量に本が飛び出しているのが目に入った。本に埋もれるようにして小刻みに動く影を捉えると、彼はふぅと一つため息を吐いた
「ただいま。兄さん、何してるんだ」
その声に1拍置いてから、おかえりと春樹は顔を上げて返事をした
少し斜めにずり落ちた太いフレームの眼鏡を正しい位置に戻しながら、春樹は手に持った書物を千秋に見せながら言った
「いやぁ、今回書く小説の参考にしたい本があってね。中々見つからないからって色々引っ張り出してたらこの有様だよ」
「兄さんは探してる途中に本読み出すからいけないんだろ」
やれやれと言った顔で千秋は廊下に散らばった本を集めながら兄の方へと歩み寄った
春樹は少し苦笑いを浮かべて頭を掻きながら傍に積んであるシリーズ物の小説の巻数を見て、あれと言った表情を浮かべた
30巻あるうちの26巻まで読んでいたらしい。本人もそこまで夢中になっているとは思わなかったらしく、手に持っていた27巻を少し申し訳なさそうに傍に積んだ
「本当だな。悪い癖だ。またヒロさんに怒られる」
ヒロさんというのは兄の担当編集者の事だ。兄は基本的に締め切りは守る人だが、ごく稀に締め切りに間に合わない時がある
そういう時は大抵本を読み出して止まらなくなっている時だという事を千秋は小さい頃から良く知っている
少し気恥ずかしそうに自分で散らかした本を何冊か同時に持ち本棚に戻していく
書物庫には本棚はあるが、本棚に入りきらない数の書籍はダンボールなどに詰められて床に積み上げられている
この大半は春樹の物だが中には生前両親が愛読していた本なども幾つかあった。そういった本はきちんと本棚に並べられ、色褪せないよう布を被せてある
拾い集めた本を棚に入れようと薄暗い書物庫の奥へ入り、手に持っている本が入っていたであろう場所を探した
その時、ふと違和感に気付いた。千秋は本を棚に納めると後ろをゆっくりと振り返った
千秋の視線の先にはあの両親の愛読書を納めてある少し背の低い古びた本棚があった。その本棚に千秋はある違和感を覚えていた
この書物庫を使うのは殆ど兄だけだった。それも頻繁にでは無く週に1回か2回入るか入らないかくらいだ
書物庫に入ったとしても目的は仕事の為の参考資料を探す事。その参考資料も殆どが床に積まれたダンボールに入っているか、兄の本棚に納めてあるかなので両親の本棚を触る事は良く書物庫を利用する兄でも殆ど無いと言ってもいい
だから両親の本棚は殆ど生前のままなので、この家の者なら違和感があればすぐに分かるはずだった
けど兄はどうやら気付いてはいないらしい。黙々と自分の散らかした書物を本棚に納める作業を繰り返している
両親の本棚には、不自然に大きな本が納められていた。サイズはA4くらいだろうか。布を被せてあるためそこだけぽっこりと盛り上がっているので余計に目立って見えた
殆ど文庫本で納められている両親の本棚には不釣合いな大きさだ。千秋は一瞬考えてから、布をそっと捲った
ミステリー小説や恋愛小説、自己啓発の本と一緒に並んでいたその大きな本は西洋のバイブルのような背表紙をしていた
うちはキリスト教徒だったかなと少し記憶をさかのぼってみたが、そんな記憶は一切無かった
よくよく見てみれば背表紙に書いてある文字も見た事がない文字だった。ゆっくりと引き抜くとパタパタと横に並んでいた文庫本が静かに倒れた
春樹はその音に気付き、手を休めて千秋の方を見た。そしてすぐ両親の本棚へと視線を移しゆっくりと歩み寄った
兄が近づいてきている事を察して、千秋は声を発した
「こんな本あったか?」
千秋は手に持った金色で縁取られた黒の大きな西洋書から目を離す事無く兄に問いかけた
表紙にも背表紙と同じく見たことの無い文字の羅列があった。金色で文字が書かれている
兄は千秋の後ろから本を覗き込むとうーん、と首を捻った
「あったような、無かったような…覚えが無いなぁ」
「そう、か」
千秋はその言葉に少し違和感を感じた。本当に分からないふうだったからだ
彼の中では兄に「こんな本あったか?」と問いかける前からこんな本は無かったと思っていたからだ
あまり書物庫に入らない俺がそう思うのだから、一番書物庫を利用する兄も同じ答えを出すと思っていたからだ
腑に落ちない、といった感じで少し本を眺めた後両親の本棚に布を被せた
「この本部屋に持ってってもいいかな」
別に兄はこの書物庫の物を勝手に持っていっても怒ったりする事は無いが、これは一応両親の遺品となるわけだしと思い何となく許可を得なければと思った
そう声をかけた時には兄は既に本を片付ける作業に戻っていた
「別に良いんじゃないか?後で戻しておいてくれればいいよ」
「そうか。ありがとう」
両親の本棚の上に本をぽんと置き、千秋も兄を手伝った
その時何となく、いつもの日常と違う気配がした