後編
アイメイは軽く会釈して俺の前の席に付いた。
「何を飲みますか」
「あなたと同じものを」
「俺はビールですけれど、それでいいですか?」
「はい、ビールをお願いします」
アイメイは感心するほど、とても流暢な日本語だった。
「日本語、上手ですね。どこで勉強したの」
思わず聞いたが、まったく、くだらない質問だった。
売春婦は軽々に自分の出身地を悟られるような話はしないだろう。
アイメイはさらりと
「独学です」そんな答え方も、確かにあった。
「偉いね、でもどうやって?」
「最初はNHKの日本語高座を録画したものを、何度も見て勉強しました」
「それが出来るなんて、頭が良いんだね」
「そんな事はないですよ」
「そして努力家なんだね」
アイメイは容姿を褒められるよりも、内面を評価される方が、その価値を感じるらしい。
ニコリとはにかんで見せた。
これだけ日本語が上手なら他の仕事にも、不自由はないだろうと思った。
「でも私は特別ではないですよ、ここで働く人の半分以上は日本語が話せます」
やはりそうだったのか。俺は十数人、あるいは二十数人に無視されたのだった。
しかしそれとは別に、ここでは日本語を話す能力の価値は、それほど高くないことが解った。
「でも、さっきは8人しか手を上げなかった」
そう言われたアイメイは一瞬、申し訳なさそうな顔を浮かべたが
「私を選んでくれてありがとうございます」と話題を変えた。
俺も深くは追求したくない。すればしただけ自分が傷つく。
「きみだって、俺でも良いって手を上げてくれたじゃないですか」
俺も話題を修正した。
「そうでしたね」
「だからお互い様だよ」
「でも、どうして私を選んだのですか。他にも二人いましたよ」
とアイメイは聞いてきた。
そんなことまでちゃんと見ていたのだ、ライバルが気になった瞬間があったのだろうか。
「俺には俺の好きな容姿がある。それは見た感じの好きな形が有るという事です」
「その意味、良くわかります」
「そういう人は時々いるけれど、話し相手になることは殆どないからね。だからきみを選んだんだよ」
「本当ですか、うれしく思いますよ」
「では、今度はきみの番だ。どうして俺でも良いと思ったの」
アイメイは少しも躊躇せず
「まず、あなたみたいに全員に話し掛ける人は初めてです。面白い人だと思いました。
『俺が相手でも良いと思う人』なんて聞くなんて驚きましたよ。でも、私を選んでくれるとは思わなかった」
「どうして?」
「あなたみたいに、一人でここへ来るようなお客さんは、遊び慣れています。
あなたは3度もブースの前に立った。そしてみんなに話し掛けた。
こんなに冷静な人は、私を選ばないと思いました」
「間違えているよ。手を上げてくれる人が、誰もいなかた場合を心配できなかった。
後から気づいた位だ。俺は遊びなれていないからあんな質問をしたんだよ。
くそ度胸だけは有るけどね。でも、冷静に選んだのは正解。その通りだよ」
アイメイは笑顔で
「たしかに誰も手を上げなかったら悲しいですよね。でも、くそ度胸って解りません」
「まあ、世間の常識に鈍感だってこと」
「それなら、私はその『くそ度胸』が大好きです」
メイアイに聞いてみた。
「中国語で『あなたと一緒に食事に行きたい』って何ていうの?」
「我想你一起去饭」
「発音が難しいね、もう一度言ってみてよ」
メイアイは繰り返し教えてくれた。
何度か繰り返して発音を真似た。
アイメイから「とても上手い発音になりました」と合格点を貰ったので、俺はさっそくアイメイに向けて実践した。
「Aimey,我想你一起去饭」
アイメイの顔がうれしそうに見えた。
「いつですか?」
「明日」。
その後の会話で、その売春宿と1階に有るレストランは経営者が同じだという事と、
レストランでなら会えるが他の場所では会えない、と言う事がわかった。
監視の目は厳しく、他の場所でのデートが見つかれば解雇されてしまう、とアイメイは話した。
翌日の昼食を、アイメイとその1階のレストランで摂った。
ブルージーンズに、半袖の白のブラウス。
袖から出されたアイメイの二の腕も白くて細かった。
肩まで伸びた黒い髪。
昼間見るアイメイは、昨夜のアイメイとは身なりこそ別人だが、中身は変わらない。
しかも別れてから24時間も経っていない。
奇妙な感覚の中でアイメイを見た。
二つの顔が有るようで、その実顔は一つしかない。
一つの顔を見せながら、その実二つの顔を持つ。
俺はどっちをアイメイの中に感じたのだろうか。
レストランのテーブルで俺はアイメイから中国語を学んだ。
酢豚や炒飯、シーフードサラダ、フライドポテト、アイスクリーム、サンドイッチやパスタ。たまには俺だけビールを飲みながら。
アイメイは俺に一冊の本をくれた。
表紙には『簡単な中国語』と書かれてある。
見れば日本製で、しかも100円ショップの商品だ。
「これは便利ですよ、私はこれで反対に日本語を勉強しました」
「なるほどね、安いし。これは日本語の勉強にも役立つんだ」
「そうですよ」
本を開いてみると、各ページに赤いペンでの書き添えがびっしりあった。
この女は天才ではない、努力家なのだと改めて思った。
俺は簡単なフレーズはメモを取りながら学んだ。
『あなたは日本へ行ったことがありますか』
アイメイに発音と、文章を漢字表記をして貰い教わる。
『日本料理は何が好きですか』
『日本へ行きたいと思いますか』
『日本人をどう思いますか』
『俺が嫌いではないですか』
俺は中国語を学ぶ事にかこつけて、アイメイに質問を繰り返した。
「中国へ帰るときに日本へ立ち寄った事があるの、名古屋に友達が住んでいるのよ。
焼き鳥が美味しかったな、もう一度食べたい。日本人は好きじゃないけれどあなたは好き」
「『すきだから、あんた』って、中国語では何ていうの?」
「我很愛、你」
「発音が難しいね」
「でも、どうして『アイラブユー』ではいけないの?それで誰にでも通じますよ」
「『我很愛、你』の方が、生活感がある」
「どういう意味ですか」
「重みがある」
帰国までの数日をアイメイとそのレストランで毎日会った。
俺はアイメイから中国語を学び、アイメイには日本の暮らしや文化を話した。
俺は結局その国の、その地域の観光地にはどこへも行かなかった。
ガイドブックで紹介される珍しいものも食べなかったし
特産品も買わなかったし、文化遺産も見なかった。
全ての予定を変えてしまった。
アイメイと話しをしていたかった。
それでも海外を旅している気分と、幸福な気分に包まれた日々だった。
海外を旅する楽しさの新しい感覚が芽生えた。
帰国後はメールのやり取りを数ヶ月ほど繰り返した。
俺もアイメイの話す言語を真剣に学んだ。
しかし、終わりは出会いの時から進行していたのだろう。
最後のメールにこう書かれてあった。
「私は中国へ帰ります、今までありがとう。とてもうれしかった。
これからは中国で暮らします。もうメールは出来ません。」
これまでのメールのやり取りはまったく違って、それはとても簡潔な文書だった。
我很愛、你。と言える相手がいなくなった。
それでも中国語の勉強は止められない。
アイメイは俺の『あんた』だから。




