『崩れかけた吊り橋の上で婚約破棄されたので、私だけ渡って橋を落とします』~辺境の廃橋管理令嬢は前世の知識で王国の命綱を握っていました~
「君との婚約は破棄する」
渦巻く谷風が、王太子ラルフの金髪を乱暴に撫でた。
軋む木板。眼下は霧に沈む数百メートルの奈落。
よりによって、王国最西端の断崖『竜牙峡』に架かる吊り橋の——その中央で。
「この危険なあばら橋一つまともに直せぬ無能な女など、王家に不要だ」
彼は高笑いした。橋がぎしり、と鳴る。
わたし、オリヴィア・ヴァレンフォードは、束ねた銀灰色の髪を風に揺らしながら、その光景をただ静かに見つめていた。
(……この人、自分が今どこに立っているか、本当に理解しているのかしら)
前世の記憶が、頭の隅で淡々と呟く。
前世のわたしは、日本の橋梁保全技師だった。過労で倒れ、目が覚めたらこの世界の辺境伯令嬢になっていた。
そして十年。この竜牙峡橋——王国唯一の交易路であり、命綱——を、わたしは構造計算と荷重試験と補修記録の積み重ねで守り続けてきた。
『崩れかけて見える』のは、意図的な設計だ。あえて荷重を分散させ、あえて古材を残す。素人目には廃橋にしか見えないその状態こそ、十年一人も落とさなかった緻密な保全の結果だった。
それを、この男は。
「聞いているのか、オリヴィア」
ラルフの隣で、愛らしい男爵令嬢がくすくすと笑う。聖女を自称するミレイユだ。
「まあ、ラルフ様。この方、ショックで声も出ないのですわ。可哀想に」
潤んだ瞳。手のひらを、ぽう、と淡く光らせる。
(それ、ただの照明魔法でしょう。加護でもなんでもない。品質管理という概念が、この国には存在しないのかしら)
「橋の管理は今後、ミレイユに任せる」ラルフが胸を張った。「彼女の『加護』があれば、こんな橋、一瞬で新造できる。無能なお前の十年など、必要なかったのだよ」
谷風が、ひときわ強く吹いた。
主索がわずかに撓む。その微細な揺れの意味を、この橋の上でわかっているのは——わたしだけ。
わたしは、ゆっくりと口を開いた。
怒鳴りはしない。喚きもしない。
「……わかりました」
ただ、静かに。
*
「ではこの橋の管理、すべてお返しいたします」
わたしは告げた。
「——今この瞬間から」
ラルフが鼻で笑う。「殊勝な心がけだな。せいぜい辺境で朽ちていくがいい」
ミレイユが勝ち誇ったように微笑んだ。
二人は橋の反対側、王都側に立っている。
わたしは辺境側に立っている。
この位置関係が、すべてだった。
わたしは踵を返し、辺境側の岩場へと歩き出す。軋む木板の一枚一枚、どこに足を置けば負担がかからないか、身体が覚えている。
背後でラルフの声がした。「逃げるのか。無様なものだ」
(逃げる? いいえ。これは撤収です。管理者が去る、それだけのこと)
岩場に渡りきると、わたしは懐から一枚の羊皮紙を取り出した。
埃と鉄錆にまみれた、補修記録。この十年、毎日書き換えてきたもの。
そこに記された、最新の一行。
『主索・第七区画、劣化限界。あと三日で交換予定』
メインケーブルの寿命。荷重を支える、橋の生命線。
それを知っているのは、この世界でわたし一人。
「お嬢様。……よろしいのですか」
岩陰から現れたのは、辺境伯家の家令セドリック。白髪を几帳面に撫でつけた初老の男が、計測器具を抱えて静かに控えていた。
「ええ。管理者が不在になった橋を、そのまま放置するわけにはいきません。危険ですから」
セドリックの口元が、わずかに歪む。
「あの方々は」老家令は王都側の二人を見やった。「命綱を握っていた手を、自ら振りほどいたのですな」
「主索・第七区画、劣化限界。あと三日で交換予定でした。……それを知っているのは、この世界でわたし一人です」
「理屈はさっぱりわかりませんが」セドリックは深く頷いた。「お嬢様の橋が十年一人も落とさなかった事実がすべてでございます」
わたしは羊皮紙を丁寧に畳んだ。
そして、辺境側の岩の隙間に手を伸ばす。
そこには、わたしだけが知る機構がある。
『制動楔』——橋を、誰も傷つけず、規定通りに正式封鎖するための安全装置。
暴力ではない。破壊でもない。
ただ、正しい手続きを踏むだけ。
*
わたしは制動楔に指をかけた。
「セドリック、記録を」
「はい」老家令が羊皮紙を広げ、羽根ペンを構える。
「本日、竜牙峡橋の管理権は王家指定の代理者へ移譲。しかし当該代理者は点検・補修の能力を有さず、現地に不在。ゆえに管理者不在の危険橋と判断」
わたしは淡々と読み上げる。
「辺境伯領規定第九条に基づき、通行を正式封鎖する。……以上。日付と署名を」
「たしかに、承りました」
これは、報復ではない。
危険な橋を、規定通り封鎖する。それだけの、完全に正当な行政手続き。
わたしは制動楔を、ゆっくりと引き抜いた。
かちり、と小さな音。
橋の辺境側の支承がわずかに沈み、渡り板の連結が解ける。人が渡れば即座に崩落するよう、安全に機能を停止する仕組み。
十年前、わたしがこの手で設計した機構だった。
「なっ……何をした!?」
王都側でラルフが叫んだ。橋の異変に、ようやく気づいたらしい。
「橋を封鎖しました」わたしは答えた。「管理者がいない危険な橋を放置するのは、辺境伯領の規定違反ですので」
「ふざけるな! 渡れないだろう!」
「ええ。危険ですから」
「戻れと言っている!」
わたしは、初めて彼をまっすぐ見た。
「ラルフ殿下。橋の管理はミレイユ様に委ねられたのですよね」
ラルフの顔が凍りつく。
「そ、それは……」
「彼女の『加護』があれば、橋など一瞬で新造できる。そう仰いました。ならば、ご自分で新しい橋を架けてお渡りください」
ミレイユが青ざめ、手のひらを必死に光らせる。
「は……はい、もちろんですわ。わたくしの加護があれば、こんな古びた橋、一晩で……!」
ぽう、ぽう、と。
照明魔法。それだけ。
木板の一枚も浮かびはしない。
「橋……橋が架かりませんわ……! なぜ、なぜですの……!」
「あら」わたしは目を細めた。「一晩で新しく生まれ変わると仰っていたのに?」
「ち、違うんですの! 今日は加護の調子が……!」
「加護に調子があるのですね。それは初耳ですわ」
谷風が、二人の言葉を奈落へさらっていった。
*
岩場を下り、辺境の道を歩き出したわたしの前に、影が差した。
二メートル近い巨躯。硬い鱗のような肌。鋭い金の瞳。
竜人の辺境将軍、ガーウィン・ドラクロード。『冷酷無口な竜殺し』と恐れられる男が、そこに立っていた。
「……オリヴィア」
「こ、これは……ガーウィン将軍!?」セドリックが息を呑む。
だがわたしは、なぜか驚かなかった。
「あなたでしたか」わたしは言った。「わたしが橋を点検するたび、気配を消して付き添っていたのは」
ガーウィンの巨躯が、びくりと揺れた。
「……気づいて、いたのか」
「主索の振動が、いつもより一人分重かったので」
彼は気まずそうに視線を逸らした。その仕草は、恐れられる竜殺しのものとは思えないほど、不器用で、幼い。
「お前の橋は」
ガーウィンが、ぽつりと言った。
「美しい。人を渡すために、あえて崩れているふりをする。……誰にも理解されず、無能と嘲られながら、それでも十年、一人も落とさなかった」
金の瞳が、わずかに潤む。
「俺と、同じだ」
冷酷と呼ばれるこの男が。人目も憚らず、涙ぐんでいた。
「……将軍。泣いておられますか」
「泣いていない」
即答だった。目元は明らかに濡れているのに。
「辺境に来い、オリヴィア。お前の技術を、正しく評価する場所がここにある」
彼は硬い手を差し出した。そして、言い直した。
「……いや。俺が、お前を、評価したい。ずっと、そう思っていた」
わたしは、少し笑った。
前世でも今世でも、わたしの仕事をここまでまっすぐ見てくれた人はいなかった。
「ではお言葉に甘えて」わたしは彼の手を取った。「今度は、自分のために橋を架けます。この辺境に」
「……お供いたします、お嬢様。どこまでも」セドリックが目頭を押さえた。
それを見て、ガーウィンが余計に涙ぐむ。
「……なぜ将軍まで泣くのですか」
「うるさい」
谷を渡る風が、今度はやさしかった。
*
数日後。
王都は、かつてない混乱に陥っていた。
唯一の交易路が封鎖され、物資は滞り、市場から食料が消えた。
そして——竜牙峡橋の主索が、軋み始めた。
オリヴィアの補修記録に記された通り。第七区画の劣化限界。あと三日、の、その日を過ぎて。
ミレイユの『加護』が照明魔法の紛い物だと露見するのに、時間はかからなかった。彼女は男爵家ごと信用を失い、社交界から姿を消した。
そしてラルフは。
『唯一の交易路を、無能な女に委ねていた張本人』
貴族たちの糾弾の的となり、王太子の座すら危うくなっていた。
彼はいま、崩落寸前の橋のたもとに立っている。
ぎしり、ぎしり、と軋む主索を見上げ、途方に暮れて。
「なぜだ……なぜこんなことに……あの橋が、王国そのものの命綱だったなど……」
失ってから、初めて気づく。
オリヴィアが握っていたものが、彼の言う『あばら橋』などではなく、王国そのものの命綱だったことに。
そこへ、一人の使者が現れた。
辺境伯家の紋章を掲げ、恭しく一礼する。
「ラルフ殿下にお伝えいたします。——橋の再建をご希望であれば、オリヴィア様に、相談料をお支払いください」
「相談料……だと……」ラルフの手が、震えた。
「書状にございます」使者は一通の書状を差し出した。「『初回相談は、誠意ある謝罪をもって承ります。ただし、検証もせず人を無能と断じる方の依頼は、品質管理の観点からお断りする場合がございます』——と」
書状の末尾には、几帳面な文字でこう記されていた。
『——辺境橋梁設計室 オリヴィア・ヴァレンフォード』
谷風が、崩れかけた橋を、ゆっくりと揺らしていた。
*
そして遠く辺境では。
新しい橋の設計図を広げるオリヴィアの隣で、竜人の将軍がまた、こっそり涙ぐんでいた。
「……ガーウィン。今度はなぜ泣いているのですか」
「お前の設計図が、美しいからだ」
「泣くところではありません」
わたしは分度器を置いて、少しだけ肩をすくめた。
前世では、誰にも見られずに橋を守り、過労で倒れて死んだ。
今世では、誰にも理解されずに橋を守り、無能と嘲られて婚約を破棄された。
けれど。
隣で、わたしの図面のために涙を流す不器用な竜人がいる。
背後で、計測器具を几帳面に並べ直す忠義の家令がいる。
「……でも、ありがとうございます」
そう言うと、ガーウィンはますます涙腺を崩壊させ、セドリックまでもらい泣きを始めた。
(品質管理という概念のない国は捨てました。ここで、一から積み上げます)
わたしは羽根ペンを取り、真新しい羊皮紙に、最初の一線を引いた。
荷重を分散させる、美しい曲線。
人を渡すための、命綱。
——彼女の新しい橋は、まだ、始まったばかりだ。




