(6)冷や水を浴びる
このときの仲基の池田滞在は四ヶ月間の長きにわたった。ようやく大坂へ戻ってきた仲基を見て、芳春は目をまるくした。
「ずいぶん日焼けしてたくましくなったな。池田で野良仕事でもしてきたのか?」
「仕事はしませんでしたが、野良で陽を浴びる時間が長かったものですから、このような仕儀になりました」
仲基は池田での出来事を芳春へ話した。田中桐江に会い、呉江社へ入門したこと、また僧侶日初と邂逅したことなども生き生きと述べた。日頃から言葉数が少なく、抑揚を抑えた物言いをする習慣が身についた仲基にしては言葉が躍っていた。
「いいことではないか。そうやって外へ出るのは身体にも良いし、いろいろな人と知り合って語り合えば気づきが得られ、おぬしの学問へも資するというものだ」
芳春は仲基の変貌ぶりに目を細めた。
芳春の部屋を出た仲基は、気分良く廊下を歩いていた。そのとき、反対側から穀斎が近づいてきた。
「ずいぶんと長の留守だったな。元気そうで何よりだ」
「つい池田で長居をしてしまいました。兄上もお変わりなさそうで」
仲基は身構えた。明らかに穀斎から良く思われていないことを感じとった。
「『説蔽』がお蔵入りになった傷心を癒すのにはそれなりの日数が必要だろうからな。まあ、無理もないか」
「いえ、決してそういう訳ではありません」
「石庵先生亡きあと、二代目学主になられた甃庵先生を嫌うあまり懐徳堂を離籍し、腹いせに池田で長逗留。気儘にふるまうそんなおぬしのことを父上も母上も真綿で包むように大事にいたわっておる」
仲基は言葉に詰まった。
穀斎はしばらく仲基の顔を見つめたまま、言葉を発しなかった。やがて、
「……おぬしはいいなぁ」
とつぶやくように言って、穀斎はその場を立ち去った。
取り残された仲基は茫然と立ちすくんだまま、身動きがとれなかった。先刻までの高揚した気分が一気に冷え込むのを感じた。
穀斎は毎日、汗水垂らして道明寺屋で立ち働いている。つねに周囲への気配りを忘れずに、ときには自分を枉げてでも全体の調和を保つことを優先している。両親はそれを、長男ゆえの当然の振る舞いであり、あえて多とするほどのことでもないと考えている。それに比べて、仲基はおのれが正しいと思う意見を周囲の事情など考慮せずに堂々と主張し、しかも波風が立つことをも辞さずに懐徳堂を離籍した。おまけに大坂を離れて、心ゆくまで池田で遊山三昧。そんな仲基を両親は注意するどころか、温かく見守っている。
穀斎はそう思っていて、割に合わないと感じている。
仲基は、穀斎の気持ちはよく分かるものの、穀斎の癇に障らないような生き方をすることはできなかった。そのことが仲基の気持ちを暗くした。
どれほど養生して暮らしたとしても、自分が短命であるという予感は確信的である。それに、仮に書物を遠ざけて健康第一、自愛専一にして暮らし、いくばくか生命を長らえたところで、いったいそれに何の意味があるだろうか。自分にはこの世の道理、真理を見極めたいという飢えるような欲求が内側からこんこんと湧いて出てきて、自分でもそれを抑えることができない。この世に生あるうちに、それをとことん突き詰めたい。やり残した後悔を胸に抱いたまま死を迎えたくない。
それとても結局、穀斎からすれば自分の思い入れだけを前面に押し出した勝手な振る舞いと映るであろう。
仲基は肩を落としたまま自室へ入ると、急に胸が苦しくなってその場に倒れ込み、しばらくうずくまっていた。




