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(2)初めての著作


 芳春は、学問仲間の一人であり、摂津池田で酒造業の鍵屋を営む荒木適翁(あらきてきおう)に跡継ぎの男児が居ないことを知り、享保十二年(一七二七)、十一歳になった四男の(らん)(こう)を適翁の次女、勝の許嫁(いいなずけ)として養子に出した。蘭皐は荒木姓を名乗ることになってからもしばらくは道明寺屋で起居し、懐徳堂で学問に励んでいたが、やがて池田の養父適翁宅へ移った。それからも蘭皐はときどき、池田から懐徳堂へ通う一方、池田に隠棲する儒学者、田中桐江(たなかとうこう)が主宰する詩文結社、()江社(こうしゃ)の門をくぐり、詩文を学ぶべく桐江に師事するようになった。

 道明寺屋から池田の鍵屋までは約五里の道のりである。仲基は蘭皐が養子に出た縁で、しばしば池田へ行くようになった。仲基と蘭皐は同腹の兄弟であり、齢が二つしか離れていないこと、それに学問に対する姿勢が似ていたこともあり、幼少期から気が合った。二人はかつて、雅楽管弦を学ぶために天満にある塾へ仲良く通ったこともあった。

 仲基は広汎な読書を通じて、儒学では後代に出された学説が、既存の学説を凌駕するような理論武装をする傾向があることに気づいていた。このことは、儒学の書物の成立年代と内容とを比較吟味すれば自明のことであり、これまで誰もそのことを指摘してこなかったのが不思議でならなかった。

 すなわち、儒学の始祖とされる孔子は、生存当時、春秋時代の覇者である斉の桓公や晋の文公が施政者や人民に尊崇されていたため、その上をいく思想として、先時代の聖君たる(ぎょう)(しゅん)を挙げ、堯舜の世こそ理想的な社会であると説いた。孔子よりも後世に生まれた墨子(ぼくし)は、孔子の説を踏襲しつつも、舜から禅譲を受けた()の夏王朝を理想とした。だが(よう)(しゅ)は、堯舜よりも先時代の黄帝(こうてい)の世を賞揚し、(きょ)(こう)は黄帝よりもさらにさかのぼって神農(しんのう)の世を理想とした。それに留まらず、荘子や列子の徒は、神農よりもさらに先時代の無懐(むかい)葛天(かってん)(こう)(こう)の世を称えている。

 これは、後代の学者が先代の学説の上に踊り出るために、次々に新解釈を加えていくという自然現象と言えるのではないか。「新解釈を加えて上に踊り出る」という一種の運動律であり、仲基はこれを「加上(かじょう)」の説と名付けた。

 ところが、伊藤仁斎(いとうじんさい)は、孔子の学説を理解しているのは孟子だけだと述べ、荻生徂徠(おぎゅうそらい)は、孔子の思想は先王の道に通じており、孟子や、孔子の孫である子思(しし)は道にそむいている、などと述べている。いずれも当然のごとく孔子一人だけを絶対者であると見ており、儒学の学説が成立した流れを踏まえた意見とは思えない。

 本邦における第一級の儒学者にしてこの程度の認識である。まるで見当違いというべきだ。なぜ「加上」という切り口で儒学の流れを俯瞰(ふかん)しようとしないのだろうか。

 仲基には、こんな自明なことすら理解せずに、あれこれ理屈をこねくり回している儒学者の存在が片腹痛かった。恐らく彼らは、膨大な書物を読破してきたであろうはずなのに、そこから一体何を学んだのであろうか。みずからが儒学という大海にどっぷりと浸かってしまい、儒学を客観的にとらえることができなくなってしまったのではあるまいか。

 享保十五年(一七三〇)、一六歳になった仲基は、儒学の個々の学説成立の流れを「加上」の観点から組み立て直した論文を執筆した。伊藤仁斎や荻生徂徠の儒学に関する論評への批判もここで述べた。この論文を「説蔽(せつへい)」と名付けて三部作成し、芳春と、懐徳堂の師匠である三宅石庵、中井甃庵(しゅうあん)に見せた。

 仲基には、自分は若輩ながら、すでにここまでの域に達しているのだ、という矜持(きょうじ)があった。ただ、この論文で儒学をくさしたつもりは毛頭なく、あくまで客観的にとらえると儒学には「加上」がみられる、ということを述べたかっただけである。

 「説蔽」を読んだ三人の反応はさまざまであった。

 芳春は、我が子ながら仲基の儒学への造詣の深さに改めて舌を巻いた。弱冠十六歳にしてここまでの説をなすことに驚嘆すると同時に、末恐ろしくも感じた。

 石庵は体調を崩して床に臥せていたが、病躯(びょうく)をおしてこの論文を読んだ。

(わしの若い頃によく似ている)

 説の斬新さもそうだが、早熟な自分をもて余すあまり、世の大人たちが頑迷(がんめい)固陋(ころう)で阿呆に見えてしまう。石庵は年少時、儒学者の浅見絅斎(あさみけいさい)の塾へ入門し、朱子学を学んだ。だが、長ずるにつれてそれだけでは飽き足らず、陽明学に傾倒したところ、

「趣旨が違う」

 と絅斎に叱責され、そのまま破門されてしまった。石庵は、絅斎の頭の固さに失望し、「上等なり」

 と尻をまくって立ち去った。

 そんな血気盛んだった若かりし日を思い浮かべて、石庵は目を細めた。きっと仲基も、大人たちから叱責されるのを覚悟の上でこの論文を書いたのだろう。

 布団の上で半身を起こして座っていた石庵はにわかに激しく咳き込んだ。苦しさに耐えかねて、石庵は布団に横たわった。


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