遠回りの豊かさ
蒼太が会社を辞めたのは、勢いではなかった。
何度も迷い、何度も怖くなり、それでも最後に残ったのが——
「このまま終わりたくない」
という感情だった。
だが、現実は容赦がなかった。
最初の3ヶ月は、まだよかった。
貯金があったからだ。
「意外といけるかもな」
そう思ったのが、間違いだった。
半年後。
収入はほぼゼロ。
SNSの反応は減り、フォロワーの伸びも止まった。
かつての「いいね」は消え、
代わりに増えたのは——無反応だった。
ある日、投稿した写真にこんなコメントがついた。
「これ、何がいいの?」
蒼太はスマホを握ったまま動けなくなった。
それは誹謗中傷ではない。
ただの“率直な疑問”だった。
だからこそ、深く刺さった。
やがて生活は崩れ始める。
家賃が払えず、引っ越し。
都心のアパートから、古いワンルームへ。
コンビニの弁当すら躊躇うようになり、
一日一食の日も増えた。
ある雨の日。
濡れたカメラを抱えながら、蒼太は立ち尽くしていた。
シャッターを切る気力がない。
「……なんで、こんなことしてるんだろ」
好きだったはずのものが、
急に“重荷”に変わっていた。
夜。
電気をつけない部屋で、天井を見つめる。
頭の中に浮かぶのは、会社の風景だった。
安定した給料。
何も考えなくても回る日々。
「戻ればいいだけじゃないか」
その言葉が、何度も頭をよぎる。
スマホで求人サイトを開く。
応募ボタンの前で、指が止まる。
そのとき、ふと気づいた。
——カメラに触っていない日が、増えている。
「……終わったな」
自分でそう呟いた。
好きなことを選んだはずなのに、
それすらできなくなっている。
これが一番、怖かった。
数日後。
蒼太はついに、カメラを売る決意をする。
生活のため。
仕方ない選択。
そう自分に言い聞かせた。
リサイクルショップへ向かう途中、
彼は足を止めた。
夕焼けだった。
ビルの隙間から差し込む、弱い光。
誰も気に留めない、ただの風景。
気づけば、カメラを取り出していた。
最後に一枚だけ——そう思った。
シャッターを切る。
その瞬間。
胸の奥に、かすかな感覚が戻る。
「……まだ、好きだ」
声にならない声だった。
その夜、蒼太は写真を投稿した。
何の期待もせずに。
翌朝。
通知が一件だけ来ていた。
「この写真に救われました」
たった一行。
それだけだった。
蒼太は、しばらく画面を見つめていた。
涙が出るわけでもない。
劇的な感動もない。
ただ——
静かに、何かが戻ってきた。
彼は気づく。
自分は「成功したかった」んじゃない。
「認められたかった」んでもない。
ただ——
好きだったから、やっていただけだ。
それからの蒼太は変わった。
すぐに成功したわけじゃない。
むしろ、状況はしばらく変わらなかった。
それでも、もう迷わなかった。
数年後。
彼は小さな写真展を開く。
相変わらず派手ではない。
収入も安定とは言えない。
だが、展示の片隅で、彼は思う。
あのどん底がなければ、
ここには来ていない。
誰かが彼に尋ねる。
「好きなことをやって、よかったですか?」
蒼太は少しだけ考えて、答える。
「一度、全部なくなりました」
「でも、そのあとに残ったものが——本物でした」




