4─記憶の迷宮と最初の聖女
霧の中、シエラは再び夢のような空間へと導かれていた。
いや、今度は夢ではない。魂そのものが、神の領域に引き寄せられているのだ。
「――来たか」
白い光の中に浮かぶ巨大な姿。空を裂くような翼、澄んだ湖のような双眸。
それは、白き龍の姿をした“神”だった。
だが恐ろしさは感じなかった。
威厳と静けさ、そして“ただそこに在る”という中立の気配が、シエラの心を飲み込んでいく。
「そなたの望み、確かに受け取った。よって、試練を与える」
龍の声が空間に響いた次の瞬間、周囲の景色が崩れた。
世界は万華鏡のように砕け、無数の欠片が空間を埋める。
そして、足元に現れたのは“扉”だった。
銀の扉に刻まれた文字は読めないが、どこか懐かしさを覚える。
「これは、歴代の聖女たちの記憶。その中で最も古く、最も強き者との邂逅だ」
扉が静かに開かれる。
中へ一歩踏み出した瞬間、空気が変わった。
冷たく、鋭く、それでいてどこか痛々しい――そう、“祈り”のような空間。
「……誰?」
目の前に立っていたのは、一人の少女。
純白のローブに身を包み、長い黒髪を背に流している。目は、まっすぐシエラを射抜いていた。
「私はエルヴィア。初代聖女。この世界で最初に神と契約した者」
その声は静かで、しかし凛としていた。
「あなたと、戦うの?」
「契約を望むならば、あなた自身の“意志”を示さなければならない。私はその試金石」
次の瞬間、空気が震えた。
エルヴィアが掲げた杖から、白い光が奔る。シエラは剣を抜き、瞬時に身を屈める。
直後、背後の岩が砕けた。
(……早い!)
これまで戦ってきた魔獣とは比べものにならない。魔力の密度も、戦闘の間合いもすべてが“洗練されている”。
だが、シエラは下がらなかった。
「私は、誰かの代わりじゃない。
私の“名前”を、この世界に刻むために、ここにいる!」
吠えるように叫び、剣を構える。
聖女の杖と、公爵令嬢の剣が交わる。
激しい魔力の奔流と剣気の衝突――だがその瞬間、空間に割り込むように“何か”が舞い降りた。
ふわり、と。
「……羽?」
シエラの肩に、小さな何かがとまった。
真っ白な体に透き通る青い羽根。小鳥より少し大きい、奇妙な生き物。
それはシエラの頬をすり、と撫でた。
「君は……?」
“それ”は、シエラの背後から飛び上がり、空中で羽ばたいた。次の瞬間、シエラの周囲に展開されていた封印の魔法陣を光でかき消していく。
「神の使い……か」
エルヴィアが呟く。
「その子は、この試練の中に宿る“意志”。そなたの覚悟に呼応し、形を成したのだろう。ならば――」
再び彼女は杖を構える。
「その子を守りながら、私を超えてみせなさい」
試練の“第二段階”が始まる。
仲間と共に、シエラは運命を越える戦いへと挑む。
すべては、未来の自分のために。
――そして、“まだ知らぬ誰か”のために。
聖女・エルヴィアの杖が空を裂いた。
その一閃は雷となって降り注ぎ、シエラの立つ地を焼く。
だが彼女は怯まない。足場を滑らせながらも、まっすぐに踏み込んだ。
「――はっ!」
振るった剣は結界に弾かれ、金属音があたりに響く。
その衝撃でエルヴィアの漆黒の髪がふわりと揺れた。
「なるほど。剣技も、意志も、なかなかのもの」
静かにそう評しながら、エルヴィアは再び魔法陣を描く。
「けれど……あなたの刃には、まだ迷いがある。
本当に、それがあなたの望んだ力なの?」
その問いかけは、胸の奥を鋭く突いた。
過去の苦しみ、失った立場、踏みにじられた誇り――
それを支えに剣を握ってきた。
だが、それだけでいいのか?
(私は……奪われた誇りを、取り返すために戦ってきた。でも、それだけじゃ……)
一瞬、足が止まる。
その刹那、雷光が走った。
『――下がれ!』
重く響く咆哮。
境界の外から飛び込んできたのは、真っ白な毛並みが今はなぜか艶やかな銀となっている魔獣――シルだった。
シルは地を蹴って、稲妻の直撃を遮るように前に立ち、咆哮とともに魔力の壁を張り巡らせる。
「シル……!?」
すぐに、シエラの胸元に温かな羽が触れた。
小鳥のような何かが飛び出し、彼女の腕にしがみつくようにして淡い光を放つ。
その光が魔力の盾となり、雷の余波をすべて受け止めた。
「……なんで、あなたたちが……」
シエラは小さく、震える声でつぶやいた。
小鳥は彼女を見上げ、くーーと鳴いた。
シルは少し離れた場所で、なおも結界を維持しながら、静かに目を細めて言う。
『お前が背を向けるならともかく、前を見続ける限り、俺たちは背を守る。それだけだ』
――一人じゃない。
そう思った瞬間、胸の奥に熱が走った。
「……ありがとう、ふたりとも」
彼女の剣が、青く輝き始める。
迷いが晴れ、魔力が刃に宿る。
「私は、自分の誇りを誰にも奪わせない。
そして、仲間たちを守る力がほしい……それが、今の私の願い!」
放たれた剣閃が、蒼く空を裂いた。
エルヴィアの結界を打ち砕き、聖なる光を切り裂いていく。
「ようやく、“あなた自身の意志”が剣に宿ったのね」
エルヴィアは微笑み、音もなく消えていった。
――試練は終わった。
肩で息をしながら、シエラは剣を収める。
小鳥が彼女の足元で丸くなり、シルはその背に鼻先を寄せて軽く押した。
「……ありがとう。私……もう、迷わない」
その言葉に応えるように、空に満ちる光が一瞬だけ強く輝いた。
次なる扉が、彼女を待っていた。