3─白き獣と、目覚めの声
夜は静かだった。だがその静けさは、決して安らぎではない。
この死の谷においては、“嵐の前”を意味していた。
岩の陰に外套を敷き、シエラはその上に身を横たえていた。
肩まで流れる銀髪は泥にまみれ、かつて繊細な刺繍が施されていたドレスは今や裂け目だらけ。
だが、彼女の蒼の瞳には気高さが宿っていた。
その腰には黒革の鞘に収められた一本の剣──かつて騎士団長が贈ってくれた、唯一の“形見”。
胸元には、小さな白い獣が丸くなって眠っている。
猫ほどの大きさのその聖獣は、ふわふわとした純白の毛並みを持ち、まるで人の心を覗くような瞳をしていた。
「名前、どうしようか……毛並みがきれいだから……シル。どう? “銀”って意味」
返事はない。けれど、それでいい。
懐くわけでもなく、離れるわけでもない。そんな微妙な距離感が、今のシエラには心地よかった。
頼れるほど強くない。でも、独りではない。
今は、それだけで十分だった。
彼女はシルの柔らかい体温を腕に感じながら、ゆっくりと目を閉じた。
誰かと体温を分け合って眠るのは──何年ぶりだろう。
そんなことを思いながら、意識は静かに遠のいていった。
***
翌朝。
森の奥に水を探しに入ったとき、突如として木々を薙ぎ払うような轟音が響いた。
シルがピンと耳を立て、毛を逆立てる。
「来る……!」
現れたのは、大蛇型の魔獣だった。
体長は優に二メートルを超え、全身を覆う黒鱗、口から漏れる黒い瘴気──昨日の魔獣とは明らかに格が違う。
シエラは一瞬で距離を測り、剣の柄に手をかけた。
「シル、下がって」
白い獣は素早く岩陰へと跳び退いた。
シエラは深く息を吸い、剣を抜く。
騎士団長に叩き込まれた言葉が脳裏をよぎる。
──焦るな。観察して、動きを読むんだ。
魔獣が地を這い、じりじりと距離を詰めてくる。
シエラはその動きを読みながら、瞬時に踏み込んだ。
一撃、蛇の鱗に浅く斬り込む。だが、硬い。深くは通らない。
「なら……」
視線を走らせ、目を狙うことを即座に決めた。
次の瞬間、蛇が口を開き、瘴気を吐き出す。だが、彼女は怯まず飛び込んだ。
剣が、蛇の左目を一直線に貫く。
咆哮。のたうつ魔獣の喉元に、続けざまの一閃。
刃が肉を裂き、黒い血が噴き出す。
蛇は地を揺らしながら、絶命した。
肩で息をしながら、剣を下ろす。
全身が汗で濡れていたが、心の奥で確かに何かが芽吹いていた。
(……やっぱり、私は……強くなってる)
判断力も、反応も、昔の自分とは比べ物にならない。
死の谷に来てから、自分の“力”が目覚めてきているような、そんな感覚。
そう思ったとき──耳の奥に、小さな声が響いた。
《……気づき始めたか。血に刻まれた、真の力に》
誰かの声。風に乗って聞こえるような、けれど確かに“存在”を持った響きだった。
《いずれ、真の名を呼べ。そのとき、お前は選ばれるだろう──》
風が止み、声も消えた。
だが、胸の奥で何かが脈打っている。
眠っていた何かが、扉を叩いているような。
シルが寄ってきて、そっと手を舐めた。
シエラは小さく微笑む。
「……まだ、終わってない。私の物語は」
死の谷で、誰にも知られず目覚める“力”。
そして名もなき神との出会いが、ゆっくりと彼女の運命を動かし始めていた──。