2─死の谷にて、命はまだ終わらず
この地に“谷”という呼び名はふさわしくない。
まるで世界の底をひっくり返したような景色だった。
岩は黒く裂け、木々はねじれ、空は常にどこか赤く、沈黙している。
風すら吹かず、音もなく、魔の気配だけが、空気に濃く漂っていた。
だが、そんな場所に、一人の少女が足を踏み入れていた。
肩まで流れる銀の髪は泥にまみれ、精巧な刺繍の施されたドレスも、今や裂けた外套のようになっていた。
それでも、彼女の気高さは滲み出ていた。蒼の瞳は真っ直ぐに前を見据え、その立ち姿には貴族としての矜持が色濃く残っている。垂れた銀の髪は砂にまみれ、外套は破れて布切れのようだ。
その背には、真っ直ぐな剣が一本、黒革の鞘に収められている。
それは、かつて彼女が騎士団長から授かった剣だった。
「令嬢であっても、自分の命を守れるようになれ。それが貴族というものだ」
そう言って、唯一本気で向き合ってくれた男の声が、今も耳に残っている。
幼い頃から公爵領を継ぐ者として、剣も魔法も叩き込まれた。
けれど、あの人の教えだけは、誰よりも優しく、誰よりも厳しかった。
「──だからこれだけは、置いてこられなかったのよ」
ぼそりと呟き、シエラは鞘に添えた手を軽く握った。
公爵家の令嬢。
国王に忠誠を誓った名家の後継者。
誇りと期待を一身に背負った存在──だったはずの自分は、今や、誰からも見放された。
父は顔を背け、母は言葉を失い、妹は蔑みを隠しもしなかった。
王太子は、令嬢リーネとの婚約を告げ、シエラを「妄言を口にした偽聖女」として断罪した。
無実を証明する機会すら与えられず、ただ、追放された。
「……でも、私は、死ぬためにここへ来たわけじゃない」
そう口にしたとき、自分でも驚くほど、声は冷たく澄んでいた。
その瞬間──
カラリ、と足元の岩が砕ける音が響いた。
反射的に後ろへ跳び退いた瞬間、黒い影が地面から這い出してくる。
毛むくじゃらの身体に、赤く光る目。口から滴る紫色の涎。
──魔獣。しかも複数。
「まったく、挨拶がわりがそれ?」
シエラはため息をつき、鞘から剣を抜いた。
風を裂く金属の音が、死の谷の空気を震わせる。
かつての自分なら、恐怖に足をすくませていただろう。
けれど今は違う。
身体が、勝手に構えていた。
騎士団長が何百回と叩き込んだ、基本の下段構え。
重心を落とし、剣先は最短で魔獣の心臓を突ける位置へ。
初撃。
魔獣が跳びかかった瞬間、シエラは横へすべり、剣を斜めに振り抜く。
重い手応えと、裂ける肉の音。
一撃で、喉元から胸にかけての急所を断った。
続いて、左から二体目。
爪の軌道を読み、腕を削ぎ落としてから首を跳ねる。
最後の一体は、すでに恐れを見せていた。
それでも容赦はしない。急所を突き、地面に沈める。
三体の魔獣が、倒れ伏した。
呼吸も、汗も、ない。
ただ、剣を持つ手だけが静かに震えていた。
「……やっぱり、私、強くなってるのね」
それは恐怖からではなかった。
自分の力を、ようやく知った者の、静かな確信。
誰にも信じられなかった力。
誰にも認められなかった自分。
この谷でなら、それをすべて──証明できるかもしれない。
その夜。
小さな鳴き声が、岩陰から聞こえた。
それは、小さな白い獣だった。
光を帯びた、まるで幻のような存在。
少し震え、彼女を見つめている。
「……君も、捨てられたの?」
シエラは剣を納め、ゆっくりとしゃがみこむ。
そして手を差し出し、暖かい光で包み込みながら微笑んだ。
「大丈夫。私も、ここからやり直すところなの」
その言葉に、白い獣は、ほんの少しだけ顔を近づけた。
──死の谷で出会った、最初の仲間だった。