前編
自分が転生したと気づいたのは、七歳の春だった。
父母に連れられ王宮に登城し、未来の婚約者だという王子に引き合わされたときのこと。
輝く金髪と宝石みたいな青い瞳、天使のごとき美少年の姿を見たとたん、ここが前世で嵌まっていた乙女ゲームの世界だと気づいたのだ。
美少年王子は私いち推しの攻略対象者で、その婚約者である私はゲームの悪役令嬢。
――――こんなテンプレ転生、ホントにあるものなのね。
正直『やってられないわ』と思ったけれど、救いはこの乙女ゲームの悪役令嬢の末路がそれほどひどくないことかな。
婚約破棄はされるけど、それだけ。家を追いだされるわけでもなかったし、もちろん処刑もされなかった。
なんならエンドロールの背景で、魔王を倒し凱旋する聖女一行を歓喜して迎えるその他大勢の貴族の中に、普通に立っていたわよね。
……隣にいたのは、ひょっとしたら新しい婚約者だったのかしら?
これは、この乙女ゲームの比重が魔王討伐の旅の方に傾いていたせいだろう。
攻略対象者と出会い好感度を上げていく学園生活ももちろん重要なのだけど、明らかに次々と現れる魔王軍を、力を合わせて倒し進むバトルシーンの方に力が入っていた。
――――まあ、それも楽しかったんだけど。
だから、私は大人しく悪役令嬢としての運命を受け入れ、断罪され婚約破棄されてもよかったのだ。
それで魔王は倒されて、世界は救われるのだから。
でも――――。
いやだと思ってしまったのよね。
だって、目の前の王子さまは私の大好きな『推し』だったから!
ビジュアルも言動もすべてに惹かれ、グッズも全部買い集めた最愛の推しなのよ! 課金だって、いっぱいしたんだから。
このまま彼と愛し愛され幸せな人生を歩む未来を、私はどうしても諦めきれなかった。
前世では、どんなに望んでも叶えられなかったその夢が、今は手を伸ばせば掴めるところにあるのだもの。どうして掴まずにいられるの?
たしかに王子はメイン攻略対象者だけど……でも、攻略対象者は他にもいるわよね。
このゲームは、攻略対象者の好感度が高ければ高いほど強くなって、魔王討伐が楽になるシステムだけど……でも……王子ひとりくらいなら、好感度が低くても大丈夫じゃない?
他の攻略対象者とのコンボ技だって、十分強力だったもの。
……それに考えてみれば、そもそも危険な魔王討伐の旅に、一国の王子が行く必要ないんじゃないかしら?
彼は、私と一緒に安全な場所から後方支援に徹するべきだわ。
私は、身勝手にもそう思ってしまった。
王子のゲーム中のセリフ――――『私たちは、普通の少女だった君を自分たちの都合で召喚し魔王と戦う運命を背負わせてしまった。だからこそ、私は君の盾となり剣となろう。私のすべてで君を守る! 守らせてほしい。それが私のできるせめてもの贖罪だから』――――聞いた瞬間に、なんて誠実でひたむきな人なんだろうと感激した彼の意志を私は忘れ、愚かにも彼と自分の保身を図ってしまったのだ。
これが破滅へ続く道への一歩だったとも知らずに。
その後、私は王子と仲良くなるために頑張った。
ゲームを熟知していた私にとって、王子の心を得るのは容易いこと。出会って一年も経たないうちに両想いになった私たちは、仲睦まじいと評判な理想の婚約者同士になれた。
「本当にうらやましいですわ。王子殿下からあれほど溺愛されておられるだなんて……私の婚約者など毎日毎日鍛錬ばかり。椅子にじっとして座っているのがお嫌いだそうで、私とのお茶会に顔を出すことさえしないのですよ」
そう言って嘆くのは、攻略対象者のひとりである騎士団長の息子の婚約者だ。楚々とした雰囲気を持つ彼女は文官一族のひとり娘。読書や刺繍が趣味な彼女と、脳筋の騎士団長の息子では、気が合うはずもなかった。
「どうすればそんなに愛されることができるのでしょう。お願いですから教えてくださいませんか? 私だって幸せな結婚をしたいのです!」
必死に頼んでくる彼女の目には、涙が滲んでいる。
今にも崩れ落ちそうな儚い少女の姿に、私の心は揺れた。
――――そうよね。彼女にだって幸せになる権利はあるはずだわ。
攻略対象者は他にもいるんだし。
私は、騎士団長の息子の攻略ルートも熟知していた。筋肉至上主義の彼の意識を少し変えて、婚約者に目を向けさせることくらいなら、きっとできる。
――――大丈夫よ。好感度が低くたって騎士団長の息子は強かったもの。
たとえ日々鍛錬づくしで鋼の肉体を誇っていた彼が、婚約者と仲良くお茶をしたり一緒に本を読んだりすることで、ほんの少し弱くなったとしても……それは少しだけ。
魔王との戦いに影響なんてないわ……たぶん。
そう思った私は、私だけが頼りだと縋ってくる美少女を振り払えなくなった。
……正直に言おう。
このときの私は、まるで神か聖女かのごとく私を拝め救いを求めてくる彼女の言動に、心地よさを感じていたのだ。
自尊心をくすぐられ、選りに選って悪役令嬢に転生してしまったという私のコンプレックスを、一時でも忘れさせてくれる万能感に酔いしれた。
そうして、私は自分がどれほど愚かなことをしているのか、少し考えればわかることなのに、そこから目を逸らしたのだった。
ひとりを助ければまたひとり。
そうなってしまったのは、当然だったかもしれない。
気がつけば、私は攻略対象者のほとんどと彼らの婚約者の間を取り持っていた。
「ありがとうございます! おかげで私は先生と結婚できました。彼、もう二度と私以外の女性に目を向けないって約束してくれたんです!」
私の手を両手で掴み心からの感謝を告げてくるのは、攻略対象者のひとりでお色気担当の学園教師の花嫁だ。真っ白なウェディングドレスに身を包んだ彼女の顔は、歓喜の涙で濡れている。
――――大丈夫、大丈夫よ。だって、まだ魔術師クーリがいるもの!
年齢不詳の魔術師クーリには、婚約者も恋人もいなかったはず。
……たしか、母とも師匠とも慕う女性がいたようだったけど、それははるか昔のこと。普通の人間だった彼女が今も生きているはずもないから、クーリのルートは閉ざされていないわ!
クーリは出会うことが難しいだけで、会ってしまえば比較的簡単に好感度を上げられる攻略対象者だ。
強大な力を持つ魔術師クーリがいれば、きっと魔王を倒せる……はずよね?
――――だから、私のやったことは間違っていない。
目の前の花嫁だけじゃなく、他の攻略対象者の婚約者たちだって、みんな私に感謝していたもの。
私は、善いことをしているの。
だから……大丈夫。
大丈夫のはずよ!
誰に対してかわからない言い訳と、自分自身を肯定する言葉を重ねる日々を繰り返しているうちに、いつしか時が過ぎ、魔王が現れ聖女が召喚された。
私と王子、そして他の攻略対象者たちも聖女と一緒に学園に通うことになる。
私は、攻略対象者たちに聖女に近づかないよう忠告した。
特に婚約者の王子には、聖女の行動を予測し伝える。
「殿下の気を引きたい聖女候補は、なにをしでかすかわかりませんわ。ひょっとしたら、入学式でわざと殿下にぶつかってくるかもしれません。……お気をつけてくださいね」
「――――君の言うとおりだったよ。あんな無礼な人間は見たことがない」
「異世界から来た方ですから、私たちとは考え方もなにもかも違うのかもしれませんわ」
「それにしたって、あれはない」
「でも殿方の中には、彼女の行動を天真爛漫で好ましいと思われる方もいるようですわ。……殿下は? 殿下も聖女に心奪われてしまうのでしょうか」
目を潤ませ見上げれば、王子は甘く笑った。
「ひょっとして妬いているの? 安心して、私が愛するのは君だけだよ」
「殿下……私も、お慕いしています」
私は、王子の胸に頬を寄せた。
学園の最上階にある生徒会室の窓からは、王子を捜し走り回る聖女が見える。
――――あんなに必死になって……なんて滑稽なのかしら。
笑いをこらえていれば、王子に肩を抱き寄せられキスされた。
これでもう大丈夫よ。王子は私のモノ。
いずれ聖女が魔王を倒し平和になった国で、私たちは結婚し幸せに暮らすのだ。
まだ見ぬ未来を自分に都合よく夢想しながら、私はこっそり嗤う。
もう、なにも心配ないわ。
そう思っていたのに。
――――ある日、聖女がいなくなった。
「帰った? 日本に!」
信じられない話をもたらしたのは、魔術師クーリの使い魔ミャルだ。
王宮の一室には、国王と王妃、宰相と騎士団長に攻略対象者全員が集まっている。
――――私が呼び出されたのは、王子の婚約者だからかな?
不安に震える私の視線の先では、二足歩行の黒猫が興奮状態で話していた。
「聖女だけではありません。魔術師クーリさままで、一緒に行かれてしまったのですよ!」
いったいどうしてそんなことになったの?
聖女やクーリがいなかったら、魔王討伐はどうなるのよ?
ザーッと血の気が引いていき、私は立ちくらみをおこす。
「大丈夫か!」
フラッと揺れた体を、王子が慌てて支えてくれた。
そんな私たち……いえ私を、ミャルはギロリと睨みつける。
「それもこれもあんたのせいだ! この『悪役令嬢』! あんたが聖女を『ざまぁ』しようとしたんだろう!」
ミャルの猫の手が指さすのは、間違いなく私。
「え?」
王子は驚き目を見開いた。その青い瞳の中には、驚愕以外にも微かな戸惑いが揺れている。
私は、必死に王子に縋りつき首を横に振った。
――――違う、違うのよ!
そう言いたいのに、ミャルの言葉は止まらない。
聖女と魔術師クーリがいなくなったきっかけは、聖女の母が学園に三者面談で訪れたことだったそうだ。
担任に叱られ必死に自分の愚行の言い訳をする聖女に対し、聖女の母は「ねぇ、その状況って『悪役令嬢のざまぁモノ』じゃないの?」と指摘したという。
「なんだ? その『悪役令嬢のざまぁモノ』というのは?」
不思議そうな国王に、ミャルはすぐさま返事する。
「あの後、異世界から情報を集めたのですが――――悪役令嬢というのは、聖女と同じ世界で生きた前世の記憶を持つ令嬢のようです。そしてそのほとんどは、本来聖女と恋に落ち共に魔王退治をするはずの攻略対象者の婚約者なのだとか。――――今回であれば、王子殿下や騎士団長のご子息などの婚約者が該当します」
ミャルがそう言ったとたん、全員の視線が私に向けられる。
私は「ヒュッ」と息をのんだ。
「……私が、本来ならば聖女と恋に落ちると?」
王子は、呆然として呟く。
「そうです。……こちらの世界を去る前に、聖女は『魔王を倒すには、好感度の高い攻略対象者が必要だ』と言っていました。同年代の男女で好きという感情が高まれば『恋』になるのは自然なことかと思われます」
「しかし、私には婚約者がいる」
「だから、聖女と恋に落ちた攻略対象者は、婚約を破棄するのです! そして婚約破棄されたくない悪役令嬢は、策を弄し聖女を陥れ『ざまぁ』する。その一連の流れを物語にしたものが『悪役令嬢のざまぁモノ』と呼ばれていました。……『ざまぁ』とは、相手の不幸や失敗を嘲笑う日本の言葉です」
ミャルの説明を聞いた王子は、顔を強ばらせながら黙りこんだ。かなりショックが大きいのだろう。顔色は悪く私の視線を避けるように横を向く。
ミャルは容赦なく話し続けた。
「王子殿下、婚約者から『聖女に近寄らないように』と言われませんでしたか? あるいは、聖女を貶めるような話を聞かされませんでしたか?」
ミャルに問われた王子は、ハッとする。私を見ないまま……ためらいがちに口を開いた。
「いや……貶めるような話はなかった……と思う。ただ、聖女の行動を予見し気をつけろという注意は受けた」
話をしながら王子の顔色はますます悪くなっていく。
私を……ひどく悲しそうな目で見つめてきた。
「やはり! それこそ動かぬ証拠です! 殿下の婚約者は悪役令嬢で間違いありません」
断言したミャルは、今度は私の方を向く。
「あんたが! あんたが聖女を孤立させ、日本に追い返したんだ! この悪役令嬢め! どう責任を取ってくれるんだ!!」
全身の毛を逆立てた猫が、今にも私に飛びかからんと姿勢を低くする。
「違うわ! そんなつもりじゃなかったもの。私は、ただ王子殿下と幸せになりたかっただけよ! 聖女だって、追い返そうだなんて思ってもいなかったのに」
「だが、あんたのせいで聖女はいなくなったんだ。しかも、クーリさままで! 聖女の母は、この責任は悪役令嬢が取るはずだと言っていたぞ――――『自分が婚約破棄されたくないためだけに、なんの代替措置もなく魔王討伐の要となる聖女を排除しようだなんて……そんな短絡的なことをするとは思えない』――――とな。……さあ、さっさと言えよ! あんたはどうやってこの状況で魔王を倒すつもりでいたんだ? 聖女も魔術師クーリもいないこの状況で!」
ミャルの声は、城内にグワングワンと響いた。
私に答えられるはずなんてない。
「あ――――」
無意識に王子にすり寄れば、スッと体を離された。
見上げた彼の目に浮かぶのは、戸惑いと悲哀、そしてなによりハッキリとした拒絶の色。
「殿下……」
「寄らないでくれ。今は君を見たくない」
「……あ、あ……あぁ―っ!!」
私は絶望の声を上げた。
叫び崩れ落ちた私に手を差し伸べる者は……誰もいない。
ひどく冷たい床の上で、私は独り泣き続けたのだった。