第5話
だがそんなことは全く表に出すこと無く、父は愉快な人であった。愉快な性格だという意味ではなく、おっちょこちょいな兄弟のような、可愛げのある人だった。知識人で責任感に溢れ、様々な物事に精通していた。しかしどこか間が抜けていて、しばしばケチで阿呆。僕はそんな父のことが好きだった。父はいつも週末になると何処かへ連れて行ってくれた。決して裕福な家庭ではなかったが、できる限り僕ら子供に様々な経験を与えようと努めてくれていた。今となっては子育ての苦労がよく分かる。子供をしっかりと育てるということには莫大な金と時間を必要とする。だが彼はいつも惜しみなくそれをしてくれた。
だがしかし、その一方で多忙な人でもあった。仕事が忙しい時期になると何日も作業場に泊まり込み、家に帰ってこないことも珍しくなかった。その分母が僕らの面倒を見てくれていたので何分困ることはあまりなかったが、それでもやはり寂しい気持ちがあった。しかし、幼心に父の背中を見て敬意を抱いたこともまた確かだ。
父の仕事は少し特異なものだったと言える。人前に立つことはないが、世の中のためにと心血を注いで働いていた。仕事場での父は家のそれとは別人で、鬼気迫る表情を浮かべて机にかじりついていた。僕にはあの世界の事は何もわからない。一切、物を言う立場にないと思っている。ただ、尊敬の念がある。僕も彼らのように命を削って働きたいと心から願っている。いつかあの人たちに並ぶことができるのなら、僕はいくらでも働き続けたい。同じ墓に入れるよう戦っていきたい。
一度父と大喧嘩をしたことがある。喧嘩の種がなんだったかはもう全く覚えていない、だがその時起こったことだけは鮮明に覚えている。僕は父の横っ面を思いっきり殴ったのだ。あの頃の僕は血気盛んで、何に対しても腹を立てた。刺々しく、荒々しく生きていた。あの若さは僕の中にもうほとんど残っていない。あんなにも怒りを燃え上がらせることができるのは素晴らしいことだ。誰しもが通る道だが、一方通行。戻りたくても戻ることはできない。
父は痛みで頬を抑えながら、しかし殴り返すことも叱ることもしなかった。ただそれはそのようなものなのだと、起こったことをそのまま飲み込んだ。今、僕はその気持ちがなんとなく、理解できる。もし僕に息子が生まれ、少年になり、同じように殴られたとしたら。僕も父と同じようにするだろう。若さを肌で感じる嬉しさがそこにはある。おかしな話だが、父が少し羨ましくさえある。