第1話
北海道の春は遅く来る。じっくりと、壁の向こうからにじり寄り、だんだんその姿を見せる。やっと来たかと思えばまたすぐに隠れ、凍えるオホーツクからの北風が壁を震わせる。堆積場には山のような雪が残っていて、雲の切れ間から差し込む弱々しい微かな日差しでキラキラ輝いている。街をゆく人々は肩をすぼめて歩き、僕はポケットに手を乱暴につっこむ。鍵に指が当たってチャラチャラと音がする。吐く息はひどく白く、歩みを早めた僕はまるで機関車のようだ。頬に触れる空気は氷の棘を肌に刺す。
だが僕にはわかる。あの雲のもっと上、高い高い空に、ハチクマが飛んでいる。上昇気流を捕まえて、風を切って天を翔けるあの鳥が、きっとそこにいる。
ここの季節にも随分慣れた。初めての日を、今もつい先程のように思い出す。GWももうすぐだと言うのに札幌へと向かう列車の中は真冬のような格好をした人で溢れていた。長旅で疲れていた僕はキャリーケースに押し込まれた愛猫の様子を気にしながらも、窓に流れる景色をじっと眺めていた。本州とこちらでは植生が全く違う。やけに低い木々や熊笹はまるで高い尾根にいるような気分にさせた。朝早く出発したので眠気はどっしりと頭の中に鎮座していたが、一向にそれが襲ってくる気配はなかった。それで僕はぼんやりとした、妙にゆっくりとした心持ちで外を眺め続けていた。
隣で眠る妻の横顔はどこか不安げで、時折小さく唸っては僕の右手を強く握った。その度に僕は存在を知らせるように、より強く彼女の手を握り返した。心細いのも仕方がない。僕らは疑いようもないほどアウェイな、異国の地に赴いているのだから。元より内向的な妻にとってはよほどのことだろう。そんな僕らのことなどには気も留めず列車は疾風のように森の中を抜けていった。
もうあの時のような漂流感はない。この家が、この街が、今は僕の居場所になった。故郷もあの街も既に過去となった。記憶が消えても思い出は残る。またあの場所に立てばすぐに僕の時計は早戻しを始めるだろう。そしてあの頃の僕へと、僕は引き戻される。それはネオンのように輝いている。奇跡的で、眩しく、それでいてひどく虚しい。悲しみと寂しさを孕んだ、破壊的な輝き。だから、僕は長らく故郷に帰る気にはなれなかった。仕事や金銭に責任を押し付けながら、あの孤独に襲われることを嫌った。望郷の念がなかったわけではない。むしろ旧友と顔を合わせたいと願った日は数え切れない。だが、だからこそ僕は帰国の途につくことができなかった。一人であの街を歩くのが怖くて仕方なかった。