7.焔の日に降るもの
はじめてノエルと出会ってから、いったい何年が経ったのだろう。
ぷにぷにとしていた私の手は、母のそれのように華奢でしなやかなものに変わった。
切ってくれる人がいなくなったから、なんとなくそのままにしていたら、髪の毛もずいぶん伸びた。
前髪も額の真ん中で二つにわけて、左右に流すようにしている。
もちろん、おとなになるにつれて身体にも変化があったけれど、母の書き置きと、廃墟街の店で調達したものを使って乗り切っていた。
ちなみに、廃墟街には書物がたくさんある巨大な店もあったのだけれど、その書物は知らない言語で書かれている。
母がそうしていたように、私もまた言語の研究をはじめた。
子ども向けらしい、色鮮やかな挿絵がたくさんついた薄い本からはじめたら、少しずつだがその言語を理解できるようになってきた。
日中は運動をしたり、同じく母の覚書を使って魔術の訓練をしたりして過ごした。午後になるとノエルがやってくることがあり、そういうときはただ話してみたり、差し入れをもらったり、この泉の中にいる生きものの話しをしたりした。
そして夜になると、ざわざわと落ち着かない気持ちを抑えるべく、どこか遠い国の言葉を読み解こうと研究に明け暮れた。
今でも変わらず、雫の日には青い花が、樹の日には書物が、闇の日には塵芥が降ってくる。
「ねえ、リラ。君はそこから出てくることはできないのか?」
すっかり背が伸びたノエルがそう訊いた。
私からは彼の顔はぼんやりとしか見えない。
おとなになってから気づいたのだけれど、彼の顔がくっきりと見えないのには、魔術も働いているような気がした。
泉の水は、なにかを隠すためのもの。だから、完全には見せないのだ。
「──無理よ、ノエル。前にいったでしょう? ここには結界があるの。それに出たら最後、湖水母の餌食になるわ」
湖水母の名を出したからだろうか。あれはぶわりぶわりとどこからか湧き出した。まるで喜々としてやってきたように見える。
「そうか……」
ノエルがうなだれる。それを見て、胸がちくりと痛む。
出られないというのは嘘だった。出ようと思えば出ることはできる。結界は、中からのものを簡単に通してくれるのだ。
母も一度だけ試したことがあるらしい。けれども、水面まで行くことはなく、ここで暮らすことを選んだのだと。
母譲りの膨大な魔力を受け継ぎ、鍛錬を重ねた今の私なら、本当は、湖水母などひと思いに倒すことができる。それでも、私はこの世界しか知らない。
違う場所に行くなど恐ろしくてとてもできなかった。
ノエルはしばらく黙っていた。彼は今日も泉の縁に手をついてこちらを覗き込んでいる。
彼もまたすっかり背が伸びて、いつのまにか声が低くなり、ぼんやりとしか見えないけれど、おじさま譲りの端正な顔立ちに成長したのだろうと想像できた。
「それじゃあ、僕が行く」
ノエルがぽつりと言った。そうして足をとぷりとつけた。
「え?」
「へえ、思っていたより冷たくないのだな」
ノエルが言った。
「ノエル、何をしているの? 危ないわ」
「大丈夫。僕の魔力は膨大だから。それを見込まれて養子になったのだからね」
ノエルがさらりと言った言葉にも驚いたけれど、それよりも私は不安でいっぱいになった。
「むりよ、むり」
「大丈夫だって」
ノエルは譲らない。
私は「こんな格好であなたに会えない!」と言った。
成長した私に合う大きさの服はない。だから、廃墟街の仕立て屋のような場所で服を調達していたのだけれど、母がいうには、こちらでは破廉恥なものなのだという。
「未婚の娘が殿方の前で脚を出すのは恥ずべきことよ」
こんなところにいるから意味はないだろうと思うのだけれど、母は私にひと通り淑女のマナーというものを叩き込んだ。
元公爵令嬢であり、王子妃になる予定だった人だ。私が覚えたマナーは、恐らくあちらの世界でも通用するものなのだろう。
今私が身につけているのは、水色のミニドレスだ。裾の長さは膝よりも上。ふわふわとした生地が可愛らしかったのと、私の瞳と同じ色をしていたので選んだのだが……。
それに母のドレスよりも動きやすく、自分でもかんたんに着脱できる。
母もまた、自分で脱ぎ着ができるから、あの廃墟街で見つけた衣類──男性の服のような形状のものや、足の出るワンピースなどを身に着けていたけれど、これは誰も居ない場所で女二人だからこそ着られるものだわといつも言っていた。
上からだと大して見えないだろうけれど、彼が来るときは、誤魔化すように椅子に座り、その上からひざ掛けをかけていた。
「……君にも何かしらの準備が必要だということがわかった」
ノエルは苦笑した。
「それじゃあ、少し時間を置いてからくるよ。僕は明日からしばらく、王都に行かなければいけない。だからその前に君と会いたかったんだ」
彼の目がなぜか切なげに揺れているような気がして、私は狼狽えた。
「次は君が嫌だと言っても降りていく」
「湖水母が……」
私が言うと、彼はてのひらを上に向けた。そこには巨大な雷が球状になって出現した。
「大丈夫。僕はどんな属性の魔法でも使えるし、魔力量も人並みじゃない。言っただろう?」
私は言い訳が思いつかなくなってうつむいた。
ノエルは雷をふっと消すと、くしゃりと困ったように笑った。
「しかたない。きょうは諦める。──三月後の"光の日"だ。春になったらここに戻ってくる。そのときに会おう」
ノエルは有無を言わさぬ笑顔で言った。
それから花を落としてくれた。いつもはさまざまな花を贈ってくれるのだけれど、きょうはリボンのかかった花束だった。
それはすべて真紅のメリモーラ。花言葉は「君に会いたい」。
ノエルはさっと姿を消してしまったが、私は顔に熱が集まるのを感じながら、ぼうっと彼の消えた空を眺めていた──。
その夜、私は母の形見のペンダントに願った。
「ニアードネ・ニアードネ・アフ・ヴュンシュ」
部屋の片隅に積まれていた、異界の言語で書かれた書物が光ったのだけれど──私はそんなことには気がつかなかった。