5.花の日に降るもの
それからしばらく、私は泣き暮らしていた。母という存在が消えた今、この安全な水底は、私を永久に捕らえるための牢獄に思えてならなかった。
空を見上げる。
分厚い水の壁の向こう、狭い空は今日も晴れている。廃墟街の店から取り出したソーダ水のようなさわやかな色。
ふいに凶暴な感情が湧き出した。
それは湖水母が性懲りもなく降りてきたその瞬間のことだった。
今、私がこの結界を飛び出したら楽になれるのでは──? そう思えてならなかったのだ。
ふらり、ふらりと吸い寄せられるように、私は結界の端にやってくる。
間抜けな獲物が近づいてきていることに気づいたのだろう。
湖水母もまた、ドーム状になった結界の天頂ではなくて、私が向かう先、結界の終着点へふわりふわりと降りようとしていた。
結界に手を伸ばす。さまざまな色の光が屈折してぶつかりあっているのか、不思議な色合いをしていた。
書物で見た虹に似ている。
湖水母の触手が、私の手と触手を重ね合わせようとしているかのように、近づいてきた──。
そのときだった。
ぶわり。ふわり。ひらり。ぷかり。
目の前にぱっと色が広がった。頭上から大量の花が投げ入れられたのだ。赤、桃色、黄色、橙、紫……。たくさんの花は、それぞれふわりふわりと広がりながら水底に向かって落ちてくる。
驚いて手をひっこめた。それからしばし思考が停止する。だって、今日は雫の日ではない。花が降ってくる予定なんてなかった。
しかもこれは、いつも降ってくる青いあの花ではない──。
私は驚き、不安になりながら、ねぐらにしている建物に戻った。十五階分、階段を一気に登りきった。
心臓が爆発しそうなくらいに息が苦しかった。胸を押さえて、屋根の上で膝をつく。
すると、不思議なことが起こった。誰かがこちらを覗き込んでいたのだ。
そうして「え?」と声がした。
生まれてはじめて聞く声だ。
その人がいるのは、水の上。
遠すぎるからか、あるいは靄がかかっているからなのか。顔はよく見えないけれど、私と大して年の変わらない子どものように見える。
「だれ……?」
私がつぶやくと、「うわっ! びっくりした!」とその子は言った。
その子がいる場所は、ここからずっとずっと上のほう。だというのに、声ははっきりと聞こえる。まるで泉全体を揺らすように。
「くらげがいる……」
その子のつぶやきも、鐘の音のように水を揺らした。
私を探して、建物のてっぺんあたりまでふわふわと浮上していた湖水母が、居心地悪そうにどこかへいなくなるのが見える。
「君はだれ? どうしてそこにいるの?」
「──私のことが見えるの?」
私は驚いて言った。
「うん! 声もよく聞こえるよ。遠すぎて顔はよく見えないんだけど……。不思議だね。声だけがこんなにはっきり聞こえるなんて、魔術かなあ……。ねえ、君はだれ? 泉の精霊?」
私は迷った。少し話しただけだけれど、その子はとても善良そうに見える。
「──わたし、私はリラ」
「リラ?」
「うん。ずっとここに住んでるの」
「そうなんだ! 一人?」
「……うん」
「僕は知らなかったんだけど」という言葉で、その子が男の子であることを知る。
「水の底に街があるんだね。すごいや。見たことがない」
彼は少し興奮しているようだ。顔は見えないけれど、身振り手振りが少し大きくなっている。
その様子がなんだか書物で見た子犬のようで、私はくすりと笑った。
「──あなたは、だあれ?」
私は訊いた。
「あ! そうだよね。名乗ってなかった。ごめんね。僕はノエル。
ノエル・フォン・ヘルツシュブルグ」
覗き込む少年は、ここからは上半身しか見えないけれど華麗に礼をしながらいう。
私はどきりとした。ヘルツシュブルグ。それは、母の家名だったからだ。
「ねえ、精霊の君だったら知ってるかな。ここで亡くなった人のこと」
少年の声のトーンが変わる。
「シーラ。
シーラ・フォン・ヘルツシュブルグ。僕の叔母なんだ」
私は頭の中に即座に相関図を描いた。ここにいる限り必要はないと思っていたけれど、母が教えてくれた貴族相関図。そして、母の家系図を。
母には、兄がいる。彼はその人の息子だということ──?