4.月の日に降るもの
月の日には、なにも降らない。
私たちのすみかには、壁に日付表がはってあった。母がここに落ちてきたときから週間で付けているもので、月、焔、雫、樹、花、闇、光の七つの曜日と日にちを対応させたものである。
母が亡くなったのも、月の日だった。
それからというもの、私はここに、曜日と降ってきたものを記録するようになっていた。母がしていたことをそのまま引き継いだだけである。
馬車ごと落ちてきた母が、次に目覚めたとき。彼女は、私たちが今ねぐらにしている高い建物のてっぺんに倒れていたのだという。
ここは、泉の底に沈む古代都市。
いや、都市というと大げさかもしれない。そこまで大規模なものではないのだ。しかし、各領地の端にあるような小さな村程度はゆうに飲み込む大きさのこの場所で、母は腹をくくって生きていくことに決めたのだとか。
というのも、母はそのときすでに、私がお腹にいることがわかっていたのだそうだ。父親は婚約者であった第三王子──。
母は語らなかったが、たった一人でここで私を産み、そして育てた。
たおやかで色気のある見た目からは意外なほどに、母は男勝りなところのある人だった。
だから、その気になれば一人でも逃げられたらしいのだが、私がいたせいで、犠牲になってしまったのだ。
私さえいなければ。この感覚は、生まれたときからずっと胸の中にある。
「リラ。私の大切な天使」
母は、いつもそういうふうに私を呼んだ。私の心の中に巣食う闇に気づいているかのように──。
けれども、その日の彼女は、いつもと違っていた。血の気のない顔に、気を抜くと今にも閉じてしまいそうな目。
いつも赤く美しく塗られていたくちびるは、乾燥してカサカサとむけていた。
「リラ。これを大事に、肌身はなさず持っていて」
まだ意識のあるうちに母がくれたのは、青いペンダントだった。
「これはね、水乙女の涙」
「水乙女?」
「ええ。清らかな泉に住むという精霊よ。わが家の遠い先祖は、水乙女と結ばれて、私たちはその子孫なのだと聞いたことがあるわ」
「精霊の子孫」
「そう。それでね、この宝石は、水乙女の涙が結晶化してできたものなのですって」
確かにそのペンダントについている宝石は、涙のようなしずく型をしていた。
大ぶりではあるが、その石はほとんど光を通さず、濁った色合いをしている。
「このペンダントはね、人生で一度だけしか使えないの」
「どういうこと?」
母は苦しげに顔を歪めた。
「一度だけ……」
意識が混濁してきているようだ。目尻にはぽちりと涙の粒が浮かんでいる。
「かあさま、もういい」
「ううん。大事なことなの。だから聞いて」
母は目を見開いた。有無を言わせぬ迫力があった。
「この……、このペンダントは、人生で一度だけ、あなたを助けてくれる妖精を連れてきてくれる。だからね、苦しい時、辛い時、疲れた時。よくよく考えて。……そうして、……今だと思うときに祈ってみて」
「祈る?」
私は母の手を強く握った。母はにこりと笑ったが、その手を握り返してくれることはなかった。
「祈りには、呪文が必要なの」
「かあさま」
「一度で覚えるのよ? よく聞いて?」
ふわりと母の髪の毛が持ち上がる。赤い目の中にきらきらと星が散る。
「ニアードネ・ニアードネ・アフ・ヴュンシュ」
言い切ったあと、母がひどく咳き込んだ。その手にはべっとりと血がついている。
「かあさま、ねえ、かあさま。今かあさまが使えばいい。助けを呼ぼう?」
私は泣きながら言った。母は困ったように笑うと「もう使っちゃったの」と言った。
「あなたを……」
そのあとの言葉は続かなかった。ぷつりと糸が切れたように母は動かなくなった。驚いてすがりつき泣いた。
どれくらい時間が経ったのだろう。違和感を覚えて目を開ける。まぶたが重く、ひどく喉が渇いて頭がずきずきと鈍く痛んだ。
私は母の手を探す。けれども、そこに確かにあるはずのそれはなかった。寝台の上には、母の亡骸はなく、ただ、水の痕だけが残っていた──。