前編
■
「女神神話を刺繍してほしいのです、このドレスに」
大きな窓から光の差し込む応接室。
優雅に微笑むのは辺境伯家の令嬢、アデリナ・リヒターだ。革張りのソファーから立ち上がると艶のある栗色の髪がふわりと揺れた。
アデリナはソファーの傍らに置かれたトルソーに触れる。
令嬢の体を模したトルソーが来ているのは光沢のある真紅のドレス。
立ち襟で長袖、計算しつくされた完璧なシルエット。ただ、それには一切の装飾がなされていない。
「王都で人気を博しているというビーズ刺繍作家の貴女なら可能でしょう? カーラ・バッヘムさん」
アデリナの向かいに座っている、カーラと呼ばれたビーズ刺繍作家。彼女は両膝の上に手を重ね、静かにアデリナの話を聞いていた。
腰元まで伸びた金髪は三つ編みで、ところどころに編みこまれたビーズがきらきらと煌めく。
まるでタブリエのような黒いワンピースに合わせているのは上品な白いフリルブラウス。地味な装いではあるもののすべて上質で、貴族の館の雰囲気にちっとも劣っていない。
アデリナは蜂蜜色の瞳で、カーラをすっと見下ろした。
「ずっとお会いしたかったんですの、……」
それまで淑やかに振る舞っていたアデリナは、小さく息を吐き出して首を横に振った。
「あぁ、やはり駄目ですわ。推しを目の前にして落ち着いてなんかいられません! わたくし、あなたの作品が大好きなんですの。実は、昨年王都で催された初めての展示会もお忍びで行かせていただきました。お姿も遠くから拝見させていただきましたが、お声をかける勇気がどうしても出なくって……。今もどのようにわたくしの想いを伝えたらいいのか分かりませんの。あぁ! 緊張とは、こういう心境なのかしら」
まさしく立て板に水。
突然の変貌に、カーラはぽかんと口を開けた。
「ア、アデリナ、様?」
「……少々お待ちください」
アデリナは両手で己の顔を覆い、深呼吸してから手を離した。
「カーラさんがわたくしの名前を口にしてくださっているだなんて信じられません。侍女から教えてもらったのですが、このような状態を『推しが尊い』と呼ぶんですってね」
「お、推し?」
カーラの紅茶色の瞳に戸惑いが浮かび、口元がわずかに引きつる。
アデリナはわざとよろめくようにしてソファーに座り直した。そして傍らにあった小箱を開けて中身を取り出すと、テーブルの上にずらりと並べた。
どれもが手のひらサイズのビーズ刺繡を額装したものだった。
「これらはわたくしのコレクションの一部です。特に好きでたまらないのが花をモチーフにした作品です。黒地に映える純白の百合。スパンコールが淡くピンクに煌めくのがたまりません。どの角度から見ても美しくて、一秒たりとも同じ見た目にならないところが非常にすばらしいです。半日眺め続けて侍女に怒られたときもありました。それからこちらも……」
アデリナが本気で語っているとようやく理解したカーラは、解説を止めるように両手をテーブルに向けた。
「ありがとうございます。作者として、そこまで熱心に解説されるとかえって恥ずかしいところがありますので、それくらいで十分です」
「あら。まだまだ語れますのに」
アデリナが口を尖らせる。しかし、本気で怒っている訳ではないのは明らかだった。
「光栄ですが、遠慮しておきます。それにしても、まさか令嬢様が私の作品を本気で好いてくれているとは。末代まで誇らせていただこうと思います」
カーラは、ちらりと真紅のドレスへ視線を向けた。
「しかし、ほんとうによろしいのですか? 婚約者殿との顔合わせで着るドレスに女神神話を刺繍するだなんて」
「えぇ。弟ドラゴンが悪のグリフォンを倒し、女神を救い出す場面を描いてほしいのです」
「流石はリヒター家のご令嬢、考えることがほかの令嬢方とは違いますね。ただ、首が飛ぶ覚悟で伺いますが、婚約が破談になってもかまわないのですか」
アデリナはそっと瞳を伏せた。
「父と兄は、婚約破棄を望んでいます」
王家の権力がなかなか及ばない辺境リヒター領。
それには神話が大きく関わっていると言われている。
この王国は双子のドラゴンによって創られた。
あることをきっかけに弟は闇堕ちして、王都から追い出された。
弟が追放されたのは、魔物の跋扈する不毛の地だったという。
彼は長い間孤独に過ごしていたものの、女神がグリフォンに囚われていることを知る。
紆余曲折の末に光を取り戻した弟は邪悪なグリフォンを倒し、その首を兄へと捧げ、双子は仲直りした。
兄ドラゴンは王族。弟ドラゴンは、リヒター家の開祖だと伝えられている。
その証なのかリヒター家は特別な力を持って辺境の平和を維持してきた。
「リヒター家に生まれたからには、わたくしの人生は家のためにありますもの」
今回王家が命じたのは、アデリナと公爵家の次男との婚姻だった。
第一公爵家は王族に連なっているため、姻族ともなれば辺境伯へ干渉できると考えたらしい。
しかし弟ドラゴンの名場面を描けば、兄ドラゴン側の覚えはめでたくないだろう。
「第一公爵家のご令息と交流は?」
「いいえ。一度だけ、手紙はやり取りしましたがそっけないものでしたわ。向こうも向こうで突然人身御供にされて、気分はよろしくないでしょうね」
アデリナは感情を含めない微笑みを浮かべてみせた。
「なるほど。公爵家の令息はかなりの変わり者だという噂ですしね。日替わりで女性を連れ歩いているとか?」
「噂はあくまでも他人による虚像に過ぎません。実際のところは見ていないのに、それを真に受けることはないと考えています。それならばわたくしだって」
あくまでも表情は崩さない。
先ほどまでの熱弁が幻かのように、アデリナはたおやかだった。
「年頃になっても辺境領から出ることはほぼなく、華やかな社交界とは縁遠いです。王都ではさぞ変わり者と囁かれていることでしょう」
「なかなか大変ですね、ご令嬢というのも」
「ふふ、ありがとうございます。せめて、顔合わせでは最高のドレスを仕立てたいと考えましたの。公爵家が『しっぽを巻いて逃げ出すような』ものを、と父からは言われております」
可能でしょうか? とアデリナは念を押すように尋ねる。
カーラは立ち上がると、とんっと自らの胸を叩いてみせた。
「承知いたしました。このカーラ、アデリナ様のために立派なビーズ刺繍を施してみせましょう」
■
作業部屋としてカーラにあてがわれた立派な客室。
そこへ打ち合わせと称して訪ねたアデリナは、うっとりとした表情をしていた。
「まさか目の前でカーラ様がわたくしだけのために作品を作ってくださるなんて。嬉しさのあまり倒れてしまいそうですわ」
「……様……?」
カーラは怪訝そうにアデリナを見つめるも、アデリナの視線はテーブルに釘付けになっていた。
テーブル上に広げられていたのはカーラの仕事道具。
眩い光を放つビーズは種類や色ごとに分けられてケースに入っている。
針は長さや太さを変えて何本も針山に。透明な糸はきちんと糸巻に。
すべてが整然としていて、カーラの人柄が伺えるようだった。
「昨日は初対面で粗相があってはいけないと構えておりましたが、一晩しっかりと考えました。推しであるカーラ様のことを、さん付けで呼ぶのは不敬だと」
「辺境伯令嬢に様付けされる方が恐れ多いのですが」
アデリナはわざと神妙そうに首を横に振ってみせた。
「カーラ様は、カーラ様です。ただ、推しを独占するだなんて権力濫用も甚だしいとは思います」
辺境伯家からの依頼は大掛かりなものということもあって、カーラは辺境領で半年ほどの滞在を命じられているという。
「貴女の作品を待っている方々には申し訳ないことをしました」
「全く問題ありません。仕事は早い方だと自負があります。絵画のごとき作品を求められたのは初めてで、腕が鳴ると考えました。それに、私も興味が湧いたのです。力こそ強さだと考える辺境伯家の、ご令嬢からの依頼に」
公爵家の令息との顔合わせ。そのためのドレス。
今回の作品は、これまでの予約に割り込む形となっている。
「加えて、王都育ちの身としてみれば辺境領がどんなところかも気になっていました。完成まで滞在させていただく許可を公爵家からいただいたときに、これは断る理由がないと考えました」
アデリナとカーラの視線が合う。
すると、アデリナは倒れ込むようにソファーに顔を当てた。
「こっ、神々しいですわ……無理……」
「落ち着いてください、アデリナ様。あなたの推しは私の作品であって、私自身ではないでしょう?」
「お許しください。カーラ様がすばらしい作品を創り出しているという点において、その顔すら尊く感じてしまうのです」
顔を伏せたままアデリナが悶えるように呟く。
ふぅ、とカーラは息を吐き出した。
「……もしよろしければ、やってみませんか?」
「えっ?」
アデリナはぱっと顔を上げて、カーラに見つめられていることに気づいて再び伏せた。
悶絶するアデリナの背中へカーラは声をかける。
「昨日今日の感想ですが、アデリナ様はずいぶんと可愛らしいお方なのですね。失礼ですがもっと屈強な御方だと想像しておりました。今、とても親しみが湧いてきています」
「推しから可愛らしいと言っていただけるなんて、耳が幸せです」
「耳が? 幸せ?」
しばらく唸っていたアデリナだったが意を決したように体を起こす。
お願いしますと頭を下げられたカーラは、手のひらサイズの布を缶から取り出した。
「まずは見本をお見せしますね」
純白のサテン。
カーラは針と糸を手に取ると、まるで初めから位置が決まっていたかのようにビーズを縫い付けた。
あっという間にキャンバスには一輪の赤いガーベラが咲く。
「どうぞご覧ください」
「す、す、すばらしいです……!」
全身を震わせながらアデリナはサテンを受け取ると、翳すように掲げた。
「……なんて美しいのかしら……」
「そこまで喜んでいただけることに、光栄以外の言葉が出てまいりません。さぁ、アデリナ様もどうぞ」
「緊張しますわ。針と糸を持つのは、生まれて初めてです」
「大丈夫ですよ。誰にでもできますから」
アデリナは促されるままに針を手に取った。
「ビーズはこうやって縫い止めます」
「む、難しいです」
「慣れです、慣れ。失礼いたしますね」
カーラはアデリナの隣に腰かけると、カーラの右手に自らの手を重ねた。
「カーラ様!?」
「針から目を離すと怪我をしてしまいますよ」
「は、はい」
カーラの手の甲を見て、息を呑む。
(大きな手をお持ちの方だわ。指も長くて。ところどころに傷跡があるということは、たくさん練習されてきたのでしょうね……)
アデリナは自らの手へ視線を移した。
まめと、たこ。
手だけ見れば令嬢だと判らない、令嬢失格だと言われてきた手のかたち。
それには理由がある。
(わたくしにも、できるかしら)
……そして時間はかかったものの、アデリナもなんとかガーベラを縫うことができた。
並べれば当然ながら出来の違いは明白だが、アデリナは達成感から頬を紅潮させる。
「できましたわ! ご覧ください、カーラ様!」
「おめでとうございます。これでアデリナ様もビーズ刺繍作家です」
「とんでもないです。かえって、尊敬の念が強まりましたわ」
隣で笑顔を浮かべるカーラ。
アデリナは勢いよくその手を取った。
「カーラ様、あなたはわたくしにとって最高の推しです。同世代の女性と話す機会がこれまでなかったので、ほんとうは友人になっていただきたかったのですが。やはり、推しは推しです」
「そんなそんな。推しよりは友人を希望しますよ。ご令嬢とご友人になれる機会があるなんて、ビーズ刺繍を続けてきてよかったです」
ようやくアデリナもカーラに慣れてきたように見えた、そのとき。
がたがたがたっ!
「カーラ様! 伏せてくださいませ!」
地面が唸り、天井のシャンデリアも左右に揺られる。
咄嗟にアデリナが取った行動はカーラを庇うことだった。
……。
しばらくして揺れが収まったところで、アデリナはカーラから体を離す。
「大丈夫でしたか? 近頃、辺境領では地震が頻繁しているのです。さぞ驚かれましたでしょう。王都では地震なんて起きないと聞きますもの」
カーラは目を丸くしたまま固まっていたが、はっと我に返ったようで頭を下げる。
「はい、ほんとうに驚きました。本来ならば逆であるべきところを……ありがとうございます……」
「いえ、推しに怪我をさせる訳にはいきません。わたくしは一般的な女性より頑丈ですもの、ご安心くださいませ」
(それにしても服の上からでは全然分かりませんでしたが、肉付きの少ない方。仕事に精を出しているとそうなるものなのかしら)
アデリナはもう一度カーラの体を見た。
すると突然背中を伝ったのは、冷や汗。
(そんな、まさか)
広い肩幅。骨ばったところのある顔の輪郭。少し出ているのどぼとけ。
どうして気づかなかったのか。
いや、気づかせないように体のラインを隠していたのだ。それもかなり巧妙に。
のどぼとけから視線を逸らせないまま、アデリナは声を振り絞った。
「……もしかして、男性……?」
床に零れてしまったビーズを拾おうと身を屈めたカーラの手がぴたりと止まる。
ふたりの視線が合う。
今度は逸らさないアデリナ。カーラの表情はみるみるうちに曇っていった。
「……はい。騙すようなことをして申し訳ございません。私は男性です」
ばつが悪そうにカーラは視線を逸らし口元に手を当てる。
「あらまぁ」
あっさりと認められて、アデリナは両手を頬に当てた。
拍子抜けしたのはカーラの方だ。
「騙していたことに怒っていらっしゃらないのですか?」
「いいえ。というか、驚きに感情がついてきていません」
「そうですよね……。それにしても、男性だと気づかれたのは初めてです」
「わたくしも触れなければ分かりませんでしたわ」
アデリナも床に膝をつき、ビーズを拾い始めた。
「おやめください、アデリナ様。貴女に膝をつかせる訳には」
「わたくしがしたくて拾っているのだから気になさらないで」
(よく見れば、お兄様ほどではないけれど男性の顔つきだわ。化粧で隠されているだけで。どうしましょう、推しの秘密を知ってしまいました……!)
そうなれば、取るべき選択肢はただひとつ。
アデリナの心は迷うことなく決まっていた。
「事情がおありなのでしょう? さしずめ、婚約前の令嬢と仕事のやり取りをするのに男性だと不都合があるから、といったことかしら」
「ご明察の通りです」
すべてのビーズを拾い上げ、ふたりは再び向かい合ってソファーに腰かけた。
「付け加えると、最初の頃は男性のくせにと散々言われておりました。そこで試しに名を変えて女性の装いをしたところ、仕事も増え、評価も上がり今に至ります」
「醜聞もなく大成していらっしゃるということは、あなたの人格に問題がないということでもありますわ。そんな申し訳なさそうにしないでくださいませ」
「いえ、男性だと知られてしまったからには、これ以上は」
それでもカーラは気まずそうにうなだれている。
(このままだと推しが王都へ帰ってしまいます。どうしましょう……そうですわ!)
ぱんっ!
アデリナは勢いよく両手を叩いて、破顔した。
「それならば、わたくしもわたくしの秘密をご紹介いたします。推しと秘密を共有だなんて、なんてすてきな響きなのかしら!」
■
少しお待ちくださいと席を外したアデリナ。戻ってきたときにはドレスからパンツスタイルへと着替えていた。
白いハイネックの上から赤いナポレオンジャケットを羽織り、黒いパンツはロングブーツにインしている。一見すると乗馬用の服装だ。
「お待たせしました。それではご案内いたしますわ」
アデリナは館の裏口から出て、カーラを外へと連れ出した。
「こちらです」
「もしかしてここは、射撃場ですか」
「よくお分かりになりましたね」
ふたりの目の前には、奥に山を臨んだ広大な敷地が広がっている。
手入れされた芝生の向こうには的のような板が設置されていた。
壁際の棚から、アデリナは魔法銃を取る。
魔法銃。
それは魔法の使えない人間でも扱える武器のひとつでもある。
銃弾に封じられた魔法が、魔物に命中することで発動する仕掛けとなっているのだ。
「アデリナ様!?」
「我がリヒター家は代々国境の安全と平和をこの魔法銃で守ってきました。わたくしは女性だから危ないと、実戦には参加させてもらえません。ただ、この練習場を自由に使うことだけは許されているのです」
銃床に辺境伯家の家紋が刻まれた魔法銃。
地面に銃口を当てると、アデリナは手慣れた様子で機関部へ魔法弾を装填した。
視線は自然と自らの手に向かう。
(令嬢にあるまじき手だと注意されてきましたが)
さらにアデリナは傍らに立つカーラの手をちらりと見遣る。
傷だらけの手。
自分と同じように、経験を積み重ねてきた手だ。
「推しに見られていると思うと緊張しますわね」
アデリナは緊張すると言いながらも、針と糸を手にしたときとは違って堂々としていた。
小さく深呼吸。
そして、魔法銃を構えたときには、余裕を感じさせる笑みを浮かべていた。
左手で支えると地面と平行になるように銃身を調整して、視線の先を的へと向ける。
ぱしゅっ!
軽快な音よりも先に勢いよく魔法弾が発射され、遠くの的が光った。命中したのだ。
続けて三発。アデリナの銃弾はすべて的を光らせた。
ぱちぱちぱち!!!
見守っていたカーラは勢いよく拍手を送る。
「すばらしいです! アデリナ様がこのような特技をお持ちだとは!」
「ありがとうございます。ほんとうはわたくしも国境へ行き、父や兄の役に立ちたいのです。ふふ。これが、わたくしの秘密です」
アデリナは魔法銃を地面に下ろす。
「男性だからとか女性だからとか言われるのは、もどかしくてたまりません」
それから頭ひとつ分背の高いカーラに向き合うと、顔を上げた。
「カーラ様。あなたはすばらしいビーズ刺繍作家です」
「それは、アデリナ様も同じです。貴女の銃の腕前には目を見張るものがありました」
「似た者同士かもしれませんね、わたくしたち」
アデリナは蜂蜜色の瞳をらんらんと輝かせて続ける。
「ご安心ください、推しの秘密は守ります。それが正しいファンの在り方ですから」
■
扉を軽やかにノックして、作業部屋へ入ってきたのはアデリナだった。
「カーラ様。お茶をお持ちしましたので、休憩なさいませんか?」
「ありがとうございます。アデリナ様自ら、恐れ入ります」
「侍女にも言われましたわ。ですが、わたくしがあなたと話したいんですもの」
アデリナは両手に持っていた金のトレイを窓際のテーブルに置いた。
ティーポットからふたり分の紅茶を注ぐと、ハーブティーらしい華やかな香りが立ち昇る。
ソーサーには焼き菓子が乗っている。
「わたくし、魔法銃だけではなく、紅茶を淹れることも得意なんです」
カーラは手を止めて、促されるまま窓際の席へと移動した。
ガラス製のティーポットのなかでは大輪の花が咲いている。
「頂戴いたします」
「えぇ、どうぞ」
カーラが紅茶に口をつけるのを待って、アデリナは口を開いた。
「カーラ様は、どうしてビーズ刺繍をはじめられたのですか?」
「きっかけは幼い頃の出来事です。幸運にも王妃様のウェディングドレスを見る機会に恵まれて、幼心に美しさに心を奪われました。そこからは家族に頼み込んで材料と道具を揃え、真似事の日々でしたね」
アデリナは作業台へ顔を向けた。
使い込まれた道具たちは、一朝一夕で変化する見た目ではない。
(相当苦労されてきたのでしょうね……)
アデリナの魔法銃も、すり減っていたりや傷がある。すべて、使い込んできた歴史だ。
実戦こそ参加したことはないが、己の努力の軌跡だと自負していた。
「アデリナ様は?」
名前を呼ばれてアデリナは視線をカーラへ戻す。
「わたくしは兄の勇姿がきっかけでした。幼い頃は、何をするにも兄の後ろをついて歩いていましたの。父と兄には散々止められましたが、なんとか射撃場を使えるところまで説得して今日に至ります」
「お兄様。次期辺境伯ですね。このお屋敷にはいらっしゃらないようですが」
「今は国境で魔物討伐部隊を率いています。父も一緒に」
なるほど、とカーラの唇が動いた。
「アデリナ様も、本心では討伐部隊へついて行きたかったのでは?」
「よく分かりましたわね。わたくしの射撃場での命中率は、部隊の皆さまに引けを取らないのです。下手な方よりもお役に立てる自信があります」
アデリナが胸を張ってみせる。
カーラは、くすりと笑みを零した。
そこへ、扉がノックされる。
「ご歓談中に失礼します」
「どうぞ」
廊下に立っていたのは侍女だった。
カーラを確認すると深く頭を下げてくる。
「失礼いたします。領主様がお戻りです」
「お父様が? 行きましょう、カーラ様。お父様にご紹介いたしますわ」
「その必要はない」
地鳴りのような重低音。
侍女の後ろには鷲鼻の大男が立っていた。その頬には大きな傷痕が刻まれている。
ぎろり、と辺境伯はアデリナを見下ろした。
「久しぶりだな、アデリナ。会いたかったぞ」
アデリナはぱっと顔色を一段階明るくさせる。
「もったいないお言葉、恐れ入ります。わたくしもお父様に早くお会いしたかったですわ。こちら、ビーズ刺繍作家のカーラ・バッヘム様です」
引っ張られるように入り口まで連れ出されたカーラは、おずおずと挨拶する。
「はじめまして。カーラ・バッヘムと申します」
「ふん。立派なものを仕立てるように。公爵家なぞに娘はやらぬ」
辺境伯はカーラを一瞥すると去って行った。
呼吸を忘れていたかのように、カーラは息を吐き出す。
「卿は、すさまじい迫力をお持ちですね。さすが、辺境伯……」
「どうか気を悪くなさらないでくださいませ。普段からああいうお顔なのです。ああ見えてお父様は、わたくしのことをしっかりと愛してくださっていますのよ」
「へ、へぇ」
今の会話が父娘の愛情表現方法だということに、カーラは驚きを隠せないようだった。
「亡くなられたお母様が病弱だったからという理由で、わたくしのことは甘やかしたくてたまらないんだとお兄様に教えてもらいましたの」
「なるほど……」
しかしアデリナが心から嬉しそうに見えたため、カーラはそれ以上質問することはなかった。
扉を閉めて、ふたりは再び窓際の席に戻る。
アデリナはほんの少しだけ表情を曇らせた。
「実はここだけの話。地震の原因が国境にあると考えて、お父様たちは調査を行っているのです」
「国境の外から魔物が入ってこないようにするための結界、ですか?」
「まぁ、よくご存知ですわね」
「王立学院で習いました」
さらりとしたカーラの答え。
アデリナは、口元に手を当てた。
(王立学院? 王妃様のドレスの件といい、カーラ様の正体は……貴族?)
「カーラというのは作家名ですわよね?」
「はい、そうですが」
「あなたのほんとうのお名前は何ていうのかしら?」
虚を突かれたようにカーラは目を丸くして、背筋を正した。
一瞬の間。
しかし、カーラは余裕を取り戻して、己の唇に人差し指を当てた。
「それは……秘密です」
「あら、残念」
「すべて知っていることがすなわち『好き』であるという証明にはならないでしょう?」
カーラが悪戯っ子のように片目を瞑る。
「おっしゃる通りですわね。流石、わたくしの推し」
アデリナはそれ以上、カーラを追及しようとしなかった。