⑪
午後の稽古は未来が思っていたよりすんなりと進み、まさかのあの祖母から褒める言葉を頂いた。
「お前、呑み込みが早いわね」
「まあ、運動神経は自信があるので」
体育の成績は常にトップである。
「そう、なら務めもすぐにこなせるでしょうね。来週からお前にもやってもらうことにしましょう」
「来週から!?」
思ったよりも早い展開に驚くが、祖母の鋭い視線に首肯するしか他はなかった。
「ある程度覚えたなら、指先まで意識して明日から稽古するように。お前はいささか粗雑すぎる」
「はぁい」
引きつった笑顔を無理やり浮かべながら、祖母が出ていく姿を見送って小さく毒づいた。
「本当あの人偉そうだな」
時間が空いたので夕食まで外でも散策することに決め、稽古場を離れた。
外の気温は相変わらず暑く、湿っぽい。
日本がいくら高温多湿な国とはいえ、梅雨時期でもないのにこのじめじめと纏わりつくような湿っぽさはこの土地柄のものだろうか。
帽子が欲しいところだが持ってきてないうえ、そのような物を売っているような店も見当たらない。
というより、店自体が見当たらない。
あるのは田畑や田んぼ、生い茂る木々だけだ。
辺り一面アスファルトの森で育った未来には、緑の森が新鮮だった。
「コンビニとかもないよね……」
それどころか村人もいない。
一種別世界のような光景を一人堪能していると、随分歩いてしまったのか、鬱蒼と生い茂る木々たちが未来を迎えていた。
山に入ったことはないが、少しなら大丈夫だろうか。
「熊とか出ないよね?」
一瞬だけ不安に思ったが、普段とは違う景色に少しだけ少年心のようなものが湧いてくる。
「クワガタいるかな」
少しだけ入って出てくれば大丈夫だろうと、ワクワクする気持ちを抑えきれずに山に足を踏み入れた。
山道に入ると少しだけ涼しくなった気がして、大きくマイナスイオンを吸い込む。
蝉の鳴く音をBGMに歩いていると、木の上にクワガタがいるのを発見した。
(いるじゃんいるじゃん!)
内心テンションを上げながらそうっと近づき、慣れた手つきで捕まえる。
「よし、ゲット!」
ウニウニと手の中で逃げる仕草をするクワガタを優しく掴みながら、スマートフォンを取り出し写真に収めた。
虫籠がないことが残念だったが、少しだけ浮き足立ちながら道を進む。
昔もこうして彼女と一緒に夏になれば虫を捕まえにいっていた。
そう考えて、ふと自分の思考に違和感を覚える。
「ん? 彼女………?」
彼女とは果たして一体誰のことだっただろうか。
全く思い出せないのに、幼い時ずっと傍にいたような気がする。
多分友人か何かだろうか、いかんせん幼少の記憶すぎて思い出せなかった。しかし子供の頃の記憶などそんなようなものだろうと一人納得して、歩みを進めた。
サワサワと揺れる木々や葉の音が心地良く、気がつくとだいぶ奥まで来てしまったようだ。
日の光が差さない森はどこか薄暗く、そろそろ戻った方がよいのは素人めにもわかった。
先程も別世界のように感じたが、生活音のない山の中はますます別世界だ。
少しだけ恐ろしいような感情を覚えた未来は、手の中のクワガタをそっと逃がすと足早に方向転換する。
ザッザッザっと山道を歩く自分の足音だけが響くのを聞きながら歩いていると、ふいに小さな声がすることに気づいた。
釣られるように右を向くと、少し先の距離に背の曲がった優しげな小さい老婆がいた。
彼女は小さく手招きして未来を呼んでいるようだった。
「え、おばあちゃんが何で山に。怪我とかしたのかな。おばあちゃーん、どうしたのー?」
「あたらしくきたこだねぇ、おいでおいで」
ニコニコと笑うその姿に怪我などはなさそうだと安堵すると、老婆はもう一度少しだけ大きな声で呼びかけた。
「こっちにおいで、いいものをあげるよ」
祖母とは違い、未来の想像していた優しそうなお祖母ちゃん像そのままのような老婆に、思わず呼ばれるがままそちらに体を向ける。
「わかったぁ! 今行くね!」
そう答えて足を大きく一歩踏み出した未来は、ふと違和感を覚えた。
その老婆は綺麗な着物を着て草履を履いていた。
この山の中を腰の曲がった年寄りが果たして一人でくるものだろうか、それも着物という動きづらい格好で。
ゾッとして体を引いた時には遅かった。
未来の体は重力に引かれるように一瞬宙に浮いて落ちていく。
先程まであった道がなく、体がガクンと投げ出される。
「っ……危ない!」
ギュッと強く目を瞑って衝撃に備えようとした未来の手首を、誰かが強く掴んで引っ張ってくれた。
そのまま助けてくれた誰かの上に重なるようにして道側に倒れ込む。
ドッドッドッドっと、自分の心臓の鼓動がまるで耳元で脈を打つかのように煩かった。
はぁ……と、頭上で安堵したようなため息が落ちてきて、未来は慌てて振り返ってお礼を言った。
「ありがとうございます」
「あんた、馬鹿なの?」
見れば面倒くさそうな表情で衣緒がずれた眼鏡を直していた。
「邪魔、早くどいて」
邪険に言われて、慌てて立ち上がる。
服の汚れを落とした衣緒は先程の老婆の方に視線をやると、鋭い声で一言言い放った。
「消えろ」
ニコニコとした表情のまま、老婆は静かに言った。
「おしかった、おしかったなぁ」
「黙れ」
再度強い口調で彼が言うと、老婆はやがて霧のように静かに空気に消えるように姿を消した。
「おしかったって………」
「言葉のままでしょ。あんた連れて行かれそうになってたんだよ」
彼の見つめる方向を見て、背筋が粟立った。
そこには急な斜面が広がっており、先程老婆がいた時にはあった道がなくなっていた。
「幽霊………」
「今気づいたの?」
「だってあんなハッキリ視えるなんて」
「あんた幽霊と人間の区別もできないの?」
呆れたようにため息をつく彼に思わず口ごもる。
区別も何も視えるようになったのは先刻のことで、人型でないならいざ知らず、まるで人間のように振る舞うモノをどうやって判断すればいいのかわからなかった。
「少しだけぼやけてるでしょ、輪郭が曖昧だから」
「普通の人間と変わらなかったよ。ホラー映画みたいに血みどろでも蒼白くもない。ぼやけてもなかった」
未来の言葉に彼は少しだけ眉間を寄せた。
「視えすぎるのか……」
そう呟くと、またため息をつく。
「あんた区別できるようにならないといつか死ぬよ。だいたい何でこんなとこにいるの。ただでさえこの土地は他よりそういった類いのモノが寄ってくる上、この山は曰くつきだ。村の人間だっておいそれと近寄らない」
「知らなかった」
今日何度目かの「知らなかった」を言えばいいのか、未来自身本当に嫌になる。
「あんた、知らないことばかりだね」
その言葉に自嘲が零れると共に、彼の双子の片割れにも同じことを言われたことを思い出した。
「何、何で笑ってんの」
「いや、千星くんにも同じこと言われたなって」
知らないこと、やってはいけないことばかりだ。
教えておいてほしいと思うことは甘えだろうか。
だが教えてくれなかったなら、自分で聞けばいい。もしそれが教えられない内容なら、後から何も知らないなどと詰らせはしない。知ろうと努力しても、隠蔽するのはそちらなのだから。
「うん、あたし何も知らない。だから教えてほしい」
真っ直ぐ彼を見つめれば、少しだけその瞳が驚いたように揺れた。
「僕、面倒事とか嫌いなんだけど」
「あたしが怪我とか死ぬよりマシじゃない? 舞をする人間が必要なんでしょ?」
「……君、結構ふてぶてしいね」
「うん。親戚相手に遠慮すんのやめようかなって。だってここの人たち秘密にするくせに何も知らないって馬鹿にしてくるし、遠慮するだけ無駄かなって。どうせ嫌われてるし」
一瞬だけ沈黙した彼は、やがて静かに歩きだした。
慌てて隣に並ぶと、衣緒は小さな声で言った。
「僕は別に嫌ってないよ」
聞き返すよりも先に驚いて、未来は目を真ん丸にした。




