影
#### 1: 事件
「下がってください。下がって。写真は撮らないで。写真は撮らないでください。下がってください」
街の一角で、フラッシュが光る中、何人もの警官が腕を広げ声を挙げていた。その後では、やはり警官がテープを張っていた。その向こうでは、また何人かの警官がシートを広げ、野次馬の視線を遮ろうとしていた。
「下がってください。ご協力をお願いします。下がってください。もうすこし下がって」
警官は繰り返していた。
野次馬の中程から、踵を返し歩み去る男を気にした者はいなかった。ただ普通の、中折れ帽にトレンチコートを来た男だった。気にした者がいたとしても、その男の表情にまで気づいた者はいなかった。表情にまで気がついた者がいたとしても、その理由に見当がつく者はいなかった。
#### 2: 科捜研
「課長、昨日の事件で見つけた銃弾の線条痕、出ました」科捜研の一室に、一人の課員が入って来た。「出たというか、ありません。こんな……」
「こんな?」
課長と呼ばれた男が机から顔を上げた。
「こんなもの、まともに飛びませんよ。そりゃぁ、密着してなら別ですけど」
課長と呼ばれた男は、机の上から一つのフォルダを手に取った。
「被害者に発射残滓はなし。密着、あるい至近距離からではないな。しかし、ライフリングなしとはな」
「リベレーターでも使っているのかと思いますよ」
「今どきそれはないだろう」
「リベレーターということはないでしょうけど。リベレーターを実際に見たことはありませんが。線条痕は残らなくても、あれ、銃弾に痕跡は残りそうですよね?」
「聞く限りの話では残るだろうな」
「それらしきものもないんです。手製にしても銃身には手をかけているとしか。なのにライフリングはつけていない。意図がわかりませんよ」
「意図不明の方法か」
「課長、被害者は実際に狙われたんでしょうか? それなりに限定されてはいるでしょうが、実際のところは誰でもよかったのでは?」
課長と呼ばれた男はしばらく考えた。
「いや、違うな。間違いなく被害者を狙った。たまたま心臓に当ったというのは納得できない」
課長と呼ばれた男は、机の上のファイルから一冊を取り出した。
「何年か前から、意図不明の方法による事件が何件かあるな。捜査では無視されているようだが」
「では同一の?」
「それはどうだろうな。この件でもそうだが、確実さを捨てるのにどういう理由がある?」
「なら、通り魔のような?」
「通り魔だって確実さくらいは担保するだろう。鈍らナイフで切り付けたって、反撃される可能性が高くなるだけだ。だが、この例では、鈍らナイフで心臓を一突きにしている。細かく言えば肥後の守の類いだが、市販の状態からご丁寧にさらに刃を潰してある。まさに一突きにしか使えない代物だ」
課長と呼ばれた男は、ファイルを机に広げると、その一枚に人差し指を立てた。
「同一犯なら、なにかの意図があるのかもしれない。だが被害者の繋がりも、なにも見えてこない」
#### 3: 咆哮
男が叫んでいた。叫びは嗚咽となり、そしてまた叫びとなった。
ある日は啜り泣きとなった。
ある日はやはり叫びになり、嗚咽になり、そしてまた叫びとなった。
#### 4: 虚無
男は飲んだくれていた。男に起こったことを考えると、周囲はそれを咎めることはできなかった。どう言葉をかけていいのかもわからなかった。
だが、男は憐みだけは拒否していた。憐みを受ける以外のなにかがあるはずだという信念だけが残っていた。たとえ飲んだくれていても、それだけは変わらなかった。
気がついた者もいただろう。男の目には、怪しい光があった。その光を、たんに復讐であると思った者もいただろう。ある意味においては、それは間違いではなかった。同時に、それはまったくの間違いでもあった。
#### 5: 誘い
ある日、男が自宅のポーチで飲んだくれていると、一人の男がやってきた。
「君を探し、調べていた」
その男は言った。
「そうか」
男は瓶から呷った。
「君の助けになれるかもしれない」
「あんたは俺のイライジャなのかい?」
その男は笑った。
「古いたとえを出すな。そうとも言えるし、そうではないとも言える。私は特殊な能力などは信じていない。君もデヴィッドではないだろう?」
その男はしばらく男を見た。
「だが、鍛錬は信じている。君がそこまで堕ちていないならだが」
その男は、男の目の光が反応したのを見逃がさなかった。その男は、男の手から瓶を取り上げると、数十m先に置き、そして戻って来た。
「あれを拳銃で撃てるかね?」
男は瓶を見た。
「素面でもどうかな」
「なら、その前提で撃ってみてくれないか?」
その男は懐から拳銃を抜き、男に手渡した。
男はポーチから降り、拳銃を構えた。何発か撃ってみたものの、右に、左に、後に瓶からは離れた場所に着弾するだけだった。
男は訝し気に銃を、そして銃身を調べた。
「これじゃぁ当たるわけがない。第一、弾がまともに飛ぶわけがない」
銃身は短かく、ライフリングもなかった。
「そうだろうか?」
その男は、男から拳銃を受取ると瓶に向けて撃った。瓶に対して正面を向くこともなく、無造作に右手を瓶に向けただけだった。瓶は砕け散った。
「どういう物であれ、癖がある。銃にも、銃身にも、銃弾にも、薬莢にも、火薬にも、雷管にも。これは銃以外にも言える」
「だから?」
「その癖がわかれば……」その男は手首を回し親指で瓶のあった場所を指差した。「あれができる」
「そんなことできるわけが……」
「だが私はやったよ?」
男は瓶があった場所を黙って見た。
「鍛錬を提供しよう」
その男は言った。
「あんたの目的は? あんたの部下になって命令に従えとか?」
その男はまた笑った。
「そういう人材はもう充分に確保している。だがまぁ、言うなら実験体になって欲しいというところかな。これができるのは、今のところ私だけだ。これが共有できるものだと示す必要がある。こちらの要望はそれだけだ」
「あんたの部下に仕込めばいいだろう?」
「もちろんやってはみたさ。だが、そう簡単なことじゃないらしい。君は、部下が持っていないなにかを持っているんじゃないかと思ってね。ただの希望、思い込みかもれいない。だが、君が得たなら、それをどう使うかは君次第だ。その使い途に倫理や法律を持ち込む必要はない。それは、君がやらなければならないと信じていることだからだ」
男の目の光がまた反応した。
「では、鍛錬を始めよう。車に乗ってくれ」
その男は、男を促した。
#### 6: 鍛錬
「まいった」
その男は言った。
男は右手の木製ナックルの鋲 ——小指の側についた3cmほどの、そして前にいくぶん反った刃—— を男の喉に当てていた。
その男は両手のナックルを外し、右手を差し出した。
男もまたナックルを外し、右手を差し出した。
その男は男の手を取ると、自身を引っ張り、立ち上がった。トレーニング・ウェアの埃を払うと、男の肩に左腕を回した。
「銃器、弓、刀剣、ナイフ、刃夫、格闘技、そのほか。一通り伝えられること、再現可能であることが示された。君のおかげだ」
その男は、男の脇腹を拳で小突いた。
「それでだ。聞いておきたいことがある」
その男は歩き始めた。男も腕に押され、歩き始めた。
「君はこれからどうする? 復讐をするか?」
男は黙っていた。
「それも止めはしないが…… 復讐を果たした後はどうする?」
「聞いてどうする?」
男が応えた。
「どうもしないが。聞かれたくなかったか?」
男は天井を見上げた。
「いや。そうでもない。復讐の後はどうしたらいいんだろうな?」
「鍛錬の間、復讐を考えていたか?」
その男は訊ねた。
「考えていた」
「それは鍛錬の動機になったか?」
男はしばらく黙っていた。
「どうだろうな」
「さっき、復讐を考えていたか?」
「いや。あんたは復讐の相手じゃないからな」
「そうか」
二人は1, 2分黙って歩いた。
「さっきも言ったが、復讐を止めろというわけじゃない。もし、それが君の支えであるなら、止めろとは言えない」
男はうなずいていた。
「それとも、君の中では冷めてしまったか?」
「いや、」男は首を横に振った。「冷めてはいない。だが……」
その男を、男は見た。
「落ち着きはした」
「そうか」
今度は、その男が天井を見上げた。
「様々な悪が存在する」
「あぁ」
「私たちも対抗している」
「あぁ」
「だが、私たちには制約が多い」
「だろうな」
「君にも監視がつくだろう。だが、時折ちょっとした手違いや手抜かりが発生することになる」
「それで?」
「君と同じような、実際似ていようと似ていまいと、そういう境遇に落しやる連中についてはどう思う?」
「なんだ、結局あんたの……」
男がそこまで言ったとき、その男は笑った。
「違う違う。純粋に疑問に思っただけだ」
「だが、そうだな…… それも悪くないかもしれない」
「そうか。だとしたら、いつでも連絡をくれ」
その男は、男の左肩を叩いた。
#### 7: トレンチコート
街に噂があった。トレンチコートと中折れ帽で顔を隠しながら戦う、おそらくは男性の噂だった。それは余裕なのか。それとも自棄になってのスタイルなのか。
誰かが銃で撃たれる事件もあった。首を切られる事件も。矢で撃たれる事件も。
武器や方法は多岐に亘り、仮に類似のものが用いられていたとしても、前を辿ることはできなかった。そのため、それらの事件を結びつけることはできなかった。
唯一共通していたのは、確実さに劣る得物や方法を取っていることだった。
その男は気付いていた。時間をかけ、一人、また一人と復讐が果たされていることを。その男は考えた。もし、男が復讐を果たし終えたとき、そこになにが残るのだろうか。ただの殺人鬼だろうか? それとも別のなにものかだろうか?
* * * *
男は自宅で鍛錬を続けていた。時に射撃場に向かうこともあった。
「チャンスはやる、どんな奴にでも。だが、俺はそのチャンスを小さいものにする。どう抵抗されようと、どう逃げようとしても。俺は影だ。誰も影から逃れられることはできない。俺は影を生み出す光ではない。太陽に依存する光ではない。ただそれだけで存在する影だ」
鍛錬の間、ポツリ、またポツリと、男はそう繰り返した。
了