第二話
髪の色が突然変化するという事件から早一ヶ月。あれから、特に何事も起こらず。平穏な日々が、俺の元へと戻ってきている。
先ほどまで俺は、そう思っていた。しかし、それは束の間の平穏だったらしい。目が覚めた瞬間、そう理解した。
というのも今、目の前には現実とは思えない異様な光景が広がっているからだ。俺の目に映る、宙を漂う黒い靄のようなもの。
十体以上はいる。大きさはまちまちで、大きいものだとスイカ程度。うねうねと安定せず、姿を変化させている。
昔、顕微鏡で観察したアメーバが頭に思い浮かぶ。けっこう似ている気がする。うーむ。一体こいつらはなんなのだろうか……。
正直言ってかなり不気味である。時折、ぎょろりと目玉が開くし……。化物といっても過言ではない奴らだ。
夢かな?
「そんなわけないか……」
頬を抓るというベタなことをしてみたが、普通に痛かった。さて、どうしたものか。とりあえずは、ベッドから立ち上がる。
そして、宙に浮かぶ化物を避けながら部屋から出てみた。うわー。どこにでもいるな。部屋から出ても、化物はそこら中に浮かんでいた。
「うわ!」
拳ほどの大きさの化物が、突然俺の胸から現れる。
何も感じなかった……。いやそれよりも! 慌てて、胸を触りなんともないか確かめる。
今、俺の体から現れたよな? 体にはなんともないけど……。試しに、恐る恐る化物を触ろうと、伸ばした指が空を切る。
予想通り、やっぱり実体がないようだ。となると、さっきは俺の体をすり抜けただけか……。
胸をなでおろす。触れても、害はなさそうだ。そう思うも、できるだけ触りたくはない。
化物を避けながら洗面所に向かう。学校があるし、化物のことは後回しにしよう。とにかく支度をするのだ。
半ば現実逃避をしながら、洗面所に到着。そこには先客がいた。妹の恵美がいた。
「おはよう」
「おはよう、お兄ちゃん」
ふむ。丁度良い。この化物が俺以外にも見えるのか試そう。
「なあ、ここに何かいるか?」
適当に化物の一体を指差す俺。俺の声に反応して振り返る妹、俺が指差した一点を見つめる。
「うん? 何も見えないけど……」
妹は首を傾げてみせる。うーむ。どうやら、こいつらが見えているのは俺だけのようだ。
まあ、そんな気はしていたよ。
「虫が飛んでたような気がしたんだけど。気のせいだったよ」
「ふーん」
適当に妹を誤魔化し、妹と入れ違うかたちで洗面台の前に立つ。さて、これで誰かに相談するという選択肢はなくなったな。
他人に見えないものが見えると。騒いだところで意味はない。頭がおかしくなったと思われるだけだろう。
俺は普段どおりに生活することを決めた。顔を洗い。跳ねていた髪を軽く直す。そしてダイニングへ。
「いただきます」
何食わぬ顔で朝食を食べる俺。化物はそこら中にいるが、なんとか表面上だけは平静を保ってみせる。
こういうのって、どこに相談すれば良いのだろうか?
オカルトっぽい現象だから霊能者……。神社かお寺に行けば良いのかな? そもそも原因はなんだ?
やっぱり一ヶ月前に見た夢のせいだろうか。髪の色が変わったことも関係している可能性が高いよな。
うわぁ……。目の前を通り過ぎた化物の一匹。かなり大きめの奴が、朝食を食べる妹の顔へと覆いかぶさるように重なった。すごい光景だ。
「なに? 顔に何かついてる?」
思わず凝視してしまった俺に、妹が尋ねる。
「いや、別に」
「そう? ごちそうさま」
手を顔の前で合わせ、立ち上がる妹。俺も行くとしよう。
「ごちそうさま」
「幸ちゃん。もういいの?」
「食欲なくてさ」
母の問いに答える。ほとんど食べてないが、朝から妙なものを見ているせいで、食欲がなかったのだ。
「行ってきまーす!」
家を飛び出す俺。はぁー。外にもいるのか。まあ、当然だよな。化物は本当にどこにでもいるらしい。
げんなりしながら、学校へ向かう。
そこかしこにいる化物。しかし、俺以外誰も気にした様子はない。やはり俺以外の人には見えていないようだ。
うん? 化物の姿がない場所がある。登校するために使う道の途中にある寺。その境内には化物の姿が見当たらないことに気付く。
うわー……。途端に背筋がぞっとした。寺の境内にいないってことは、あれだよな。化物は悪しきものってことにならないか?
悪霊とか妖怪とか。絶対碌でもないものの気がする。いやだなー。不安に襲われながらも、学校に到着。
学校にも当然、化物はいた。下駄箱で上靴に履き替え、教室に向かう。
「おはよう、窪田」
教室に入り自分の席に座ったところで、大橋が話しかけてくる。
「大橋か、おはよう」
「なんだ窪田。元気ないなー」
「まあな」
「そういやさ。昨日のドラマ見た? 九時からのやつ」
人の気も知らないで暢気に話しかけてくる大橋。
九時からのドラマか。見てはいるが……。
「見てないな」
正直、そんな話題で盛り上がれる精神状態ではない。
「ええー。見ろよ。おもしろかったのに」
「悪い」
そう答えたところでチャイムが鳴る。丁度良かった。
「ほら。席につけ!」
教室に入ってきた先生が声を張りあげる。そして始まる日常。
ただ、俺は授業そっちのけで、突然化物が見えるようになったことの対策を考えていた。
もっとも。結局、良さそうな策を思いつくことなく。
「はぁー」
放課後ため息をこぼす俺。疲れた……。化物の動向に、神経を尖らせていたせいで、ひどく疲れた。
もう、さっさと帰りたい。
「おい窪田。ゲーセンいこうぜ」
「悪い。用事があるんだ」
「そうなのか。じゃあまた今度な」
数人のクラスメイトを引き連れた大橋に誘われるが、きっぱりと断る。
悪いな大橋。本当は用事などないが、今日は勘弁してくれ。内心で謝罪しつつ、帰途に着く。
校門を出て家へと向かう。早く家に帰りたくて自然と早足になった。そして家まで後、数分の所まで来たとき、足が止まる。
うわ! なんだあいつ。でかい……。曲がり角を曲がった先、二十メートル先にいる、ずんぐりとした人型の化物。
今日見た中で一番大きい、人間と同じくらいの身長。しかも手や足、頭がある。頭の真ん中には大きな目玉がひとつ。
他の化物が刻一刻と姿を変化させていたのとは違い、安定した形で、そのうえ他の化物より、靄の色が黒々としている。
明らかに他の化物どもとは毛色が違う。なんだあいつ? 恐る恐ると、その大きな化物に近づく。
回り道をするという選択肢も頭に浮かんだが、早く家に帰りたいという気持ちが勝った。
いくら大きいとはいえ、こいつも他と性質は同じ、実体はないはず。ならば近づいても害はないだろう。
できるだけ離れつつ、横を通り過ぎよう。
車がぎりぎりすれ違える程度の幅の通り。奴は俺から見て通りの左端にいたので、右端ぎりぎりを通ることにする。
体を横向け、奴からできるだけ離れるように進む。ついには、奴の真横までやってきた。よし、なんとかなりそうだ。
そう安堵した瞬間。奴がぐりんと首を曲げ、こっちを向く。そして。
「よ・こ・せ!」
低く腹の底に響くおっかない声をあげ、跳びかかってきた。奴は俺に向かって右手を突き出している。
嫌な予感がした俺は、咄嗟に左に跳んだ。しかし、完全には避けきれず。
「痛!」
奴の手が右肩を少し掠める。右肩にぴりっとした痛みが走り、見ると右肩に浅い切り傷が。
やばい! やばい! まさか、ものに触れることができるのか! 一瞬で奴がやばいと判断した俺、踵を返して駆け出した。
もと来た道を疾走する。すると、すぐに奴が追ってくるのがわかった。なんというか、背後からぞわぞわとした感覚がする。
「くっ!」
振り返ると予想通り、奴は追ってきていた。四速歩行で、まるで獣のような走り方で俺に迫る。
ずんぐりした体とは裏腹に、かなり俊敏。不味い! 思ったよりも早い。
運動が苦手な俺は、すぐに息が切れる。が、死に物狂いで走る。足を止めたら終わりだ。
わき腹が痛い。口には鉄の味が広がる。だけど、後少し……。もう少し先まで逃げれば……。
俺も闇雲に逃げていたわけではない。もう少し先に、安全な場所があることを理解していた。
見えた! 俺の目が寺を捉える。あそこなら、寺の境内なら、奴も追っては来られないはず。
朝、寺の境内には一匹も化物がいなかった。だから、奴も寺の境内までは入ってこられないはずだ!
振り返ると、奴はもうそこまで来ている。だが、この程度の距離なら……。間一髪で寺の境内に逃げ込むことに成功する。
「はぁ、はぁ、はぁ。これで……」
逃げ切れた。走るのをやめ、俺は振り向く。そんな俺の目に映ったのは絶望的な光景。
俺の予想を裏切り、奴はあっさりと寺の境内に踏み込んでくる。
「嘘だろ……」
くそ! マジかよ! すぐに、再び走り出そうとするが。
「うっ!」
疲労困憊していた俺は足が縺れ、転んでしまう。
「よ・こ・せ!」
おっかない声をあげ、接近してくる奴。
「くっ、来るなぁぁ!」
俺はがむしゃらにカバンを振り回し、なんとか奴を追い払おうとする。
しかし、そんなもので怯む奴ではなく。容赦なく跳びかかってくる。
「うわああ!」
情けない声をあげた俺は、身を竦ませ、思わず目を瞑る。もう駄目だ! そう思った瞬間、声が響いた。
「吹き飛ばすのじゃ! 風ちゃん!」
高くよく通る凛とした声色であった。そして声が響くと同時に、ものすごい風が吹く。なっ、なんだ?
すぐに目を開けようとする俺だったが、風が凄まじく開けることができない。
それどころか、体まで浮き上がりそうになる。うおおおお! 咄嗟に俺は、近くにあった木にしがみつく。
なんだこの強風は! 必死に木にしがみつく俺。数秒後、風が止む。すぐさま周囲を確認する。
「た、助かった?」
周囲に奴の姿はなかった。その代わり、妙な子供がいた。宙に浮かぶ一メートルほどの大きさの、白い雲に乗った子供。
身長は百二十センチあるかないか。足元まである白いレインポンチョのような外套を羽織った姿はてるてる坊主のよう。
首には青いリボン。目深に被ったフードのせいで、顔が隠れて見えないが、さっきの声から判断するに、女の子だろう。
「大丈夫かの?」
「ええっと……」
どうやら、助けてくれたらしいが、状況が飲み込めない。この子はいったい? 明らかに普通の子供ではないよな。
「ふむ。大丈夫そうじゃな。それならば、ほれ!」
固まっている俺のほうへ、右手を差し出してくる女の子。ふむ。起こしてくれようとしているのかな。
差し出された手に、俺は右手を重ねる。
「……」
「……」
手をつないだ状態で固まる俺たち。
「なんじゃこの手は?」
「いや、起こしてくれるのかと……」
気まずい沈黙。
「違うわ! とっとと妾の力を返せ!」
俺の手を振り払う女の子。ええっと、どうやら起こしてくれるために、手を差し出したのではなかったらしい。
しかし、さっぱり意味がわからない。
「返すって何を?」
「決まっておろう。妾の力じゃ」
「えっと……」
力? いったい全体なんのこと?
「ええい! まどろっこしい。とっとと返さぬか!」
わけがわからず混乱している俺に、業を煮やしたらしい女の子。乗っていた雲から飛び降りると、俺に近づく。
そして、女の子は右手を、俺の頭へとを押しあてた。
「そいや!」
「痛い痛い痛い!」
そんな言葉とともに、女の子は俺の体から何かを引き出す。同時に、俺の体に凄まじい激痛が走る。
「なんじゃ。なぜ、かように強固に魂と結びついておるのじゃ。おかげで魂まで引っ張り出してしもうた」
はい? 魂だと。その白い物体がか? 女の子が引っ張り出した白い物体は、人型をしているけど、それが魂なのか?
てっ、だから痛いって! そんな風にぐりぐりするな。
「痛いから!」
「おお。すまんのじゃ」
謝まる女の子。白い物体を放す。すると、白い物体は俺の体に収まった。
「お主、どういうことじゃ? なぜ、妾の力が、かように深くお主の魂と結びついておる?」
「いや、意味がわからないのだが」
すまないが、説明してもらわなければ、何が何やらわからない。
「お主、本当にわからぬのか?」
不思議そうに聞き返してくる女の子。
「全然、これっぽっちも。まったく理解できない」
もう、ほんとさっぱりですわ。
急に変なものが見えるようになって、しかもその変なものに襲われ。必死に逃げた先で、今度は妙な子供に助けられる。
ほっと一息ついたら、今度は魂を引っ張り出され。詰問される。
俺の十六年の人生の中で、今日ほど濃い時間を過ごした日はないのではないだろうか。
ほんとどうしてこうなった。とんだ災難に見舞われているではないか!
心の中で悲鳴をあげる俺を尻目に、女の子は後ろに浮かんでいた白い雲に腰掛け、面倒そうに口を開く。
「はぁー。仕方ない。面倒だが説明するかの」




