第8話 ブラッディ・ローズ
庭園には美しい薔薇が咲き乱れていた。白に黄色、ピンク、そして赤色。花が大ぶりなもの、小ぶりなもの、香りが強いもの、花が変わった形をしたものなど、様々な品種の薔薇が見られる。中には鉄のアーチに蔓薔薇を絡めた薔薇のアーチなどもあって、庭園は薔薇の香りで包まれていた。
「すごい薔薇ね」
「ここは『薔薇の庭』ゆうてな、外部から来るお客さんにはこの庭が一番好評なんや」
「確かにこれは評判いいだろうね……ところで、お城には薔薇の花しか植えてないの?」
「いや、そんなことはないで。薔薇ばっかり植えてんのはここだけや。向こうの庭園は種類の違う花がバランス良く植えられとるよ。今の季節だと、百合、ラベンダー、ヒース……それからハイドランジア、ブルーベルなんかも綺麗に咲いとるはずや」
「詳しいね」
「これでも城勤めやからな。客人の案内は出来るようにしてあんねん」
「へえ……そういえばうさぎって、なんの仕事して……」
ふと思いついた疑問を投げかけようとしたそのとき、すぐそばで甲高い声が聞こえた。
「白ウサギ様は、女王陛下の補佐役でいらっしゃるのよ」
「いつも陛下にこき使われてて可哀想なの」
「かけずり回って向こうの世界にまでお使いして、それなのに約束の時間に遅れて大目玉。くすくす、可哀想、可哀想」
さざめくような声は、一つだけじゃなくいくつもあった。アリスは驚いてきょろきょろと辺りを見回す。だけどどれだけ探しても、辺りには自分と白ウサギ以外の人影はない。
「……誰が喋ってるの?」
「うふふ、お馬鹿さん。あなたのすぐそばにいるじゃないの」
「くすくす、愚かなアリス。そっちじゃなくてこっちだってば。ほら、あなたの足下に」
「足元にって、そこにあるのは薔薇の花だけ……」
自分で言ってから、アリスははっと息を呑んだ。周囲を埋め尽くす真っ赤な薔薇を見やる。
「まさか、薔薇が喋ってるの?」
「あら、薔薇だなんて一纏めにして呼ばないで頂戴。あたくしたち、ちゃんと一人づつ名前があるの」
「あたしはクリスティーナ」
「私はアイリーンよ」
「あたくしはレベッカ。そっちの子はベラ。向こうのあの子はミラベル、そしてあの子は……」
「ああ、わかった、わかった!」
それぞれに名乗り出した薔薇たちを、アリスは慌てて制止した。このままだとずっと向こうのペースに流されてしまう。
「それにしても、白ウサギの坊やは相変わらずの格好つけね。アリスが来るからって、必死で城内の構造を見直していたのはどこの誰だったかしら?」
「あたくしたちにまで頼ってきたじゃない。アリスはどんな花が一番好きかって——」
そんなの薔薇に決まっているじゃない、と薔薇たちは声を揃えて大合唱した。
いきなり矛先を向けられた白ウサギはと言えば、ばつの悪そうな顔をしていた。
「……お前ら本当にお喋りやな……ペラペラペラペラいらんことまで喋りよって」
「白ウサギ様、顔が真っ赤でしてよ」
「やかましいわ!」
薔薇たちを怒鳴りつけてから、白ウサギはくるりとアリスの方を振り向いた。
「アリス、気にせんといて。こいつら適当ばっか抜かしよんねん。間に受けんでええから……」
「失礼ね、あたくしたちは嘘なんかつかないわよ! どこぞの猫じゃあるまいし……」
「あの、うさぎ」
放っておくとまた薔薇たちと言い合いを始めそうな白ウサギを、アリスは慌てて呼び止めた。
「ごめんなさい」
「は、何で?」
「せっかく歓迎してくれてたのに、わたし帰りたいとか言っちゃって……」
思えば白ウサギは最初からアリスを歓迎する姿勢を見せていた。森の中を案内してくれたときだって、アリスが何か聞けば丁寧に答えてくれたし、アリスが見てみたいというから宝石でできたラズベリーの群生地へ連れて行ってくれた。
今日だって本当は他の仕事も忙しいだろうに、わざわざアリスに付き合ってくれている。
それを考えると、なんだか申し訳なくなってきた。
黙り込んで俯いていると、不意にくしゃりと頭を撫でられた。見上げると、白ウサギが苦笑いを浮かべている。
「……続きは向こうで話そか」
「え」
「ここだと煩いのがおるしな」
聞こえよがしに言う白ウサギに、たちまち薔薇たちから甲高い苦情の声が浴びせられた。鼓膜が破れそうなほどの大合唱に、二人は逃げるようにそこから立ち去った。
迷路のような庭園を走って辿り着いたのは、白薔薇が咲く区域だ。周りは丁寧に整えられた茂みで囲われていて、本当に迷路のようになっている。先ほどいたところよりも、ずいぶん奥まった方へ来たらしい。
「あのな、アリス」
薔薇たちの声が聞こえない場所で、白ウサギは静かに語り出す。
「帰りたいって思うのは普通のことやし、君がそれを後ろめたく思う必要はないねん。俺たちもアリスを招待することばかりに気を取られて、君の都合なんて考えもせぇへんかったからな」
「……うん」
しばらく考えてから、アリスはかくりと首を傾げた。
「あれ、やっぱこれ、そっちが一方的に悪くない? 私なんの落ち度もなくない?」
「あ、うん……そやな」
「あっぶね。くだらん罪悪感で騙されるとこだった」
「まあでも来たもんはしょうがないし、こっから足掻くしかないけどな」
「うわ、開き直った……」
もう少し狼狽えるかと思ったのだが、白ウサギの開き直りはアリスが予想していたよりもずっと素早かった。
彼は爽やかな笑顔を浮かべて、アリスに手を差し伸べる。
「俺は可能な限りアリスに協力する。そのための白ウサギやからな。というわけで、これからよろしゅうな、アリス」
白薔薇の上品な香りが辺りを包んでいる。かすかな風に薔薇の葉が揺れ、アリスの漆黒の髪もふわりとそよいだ。
差し伸べられた手に、少女は自分の手を重ねる。
「……うん。よろしく、うさ」
ぎ、を言う前に、ごつん、と何かが爪先に当たった。やけに重さのあるそれを不思議に思って、アリスは足下に視線を落とす。そして絶句した。
そこに転がっていたのは、生首だった。
「ぎゃああああああぁあぁあっ!!」
乙女にあるまじき悲鳴をあげて飛び退る。そのときに勢い余って背後の薔薇の茂みに当たってしまった。
薔薇を傷つけてはいけないと思い、慌てて退けようとするが、手にべちゃりと何かが付着して動きを止めた。
赤い液体が、アリスの手をべったりと汚している。どうやら薔薇に触ったときについたらしい。この辺の薔薇は全部白だったような気がしたが、ここの茂みのものだけなぜか赤い。赤色が滴らんばかりである。というか比喩ではなく、実際に滴っている。
それは、血に濡れた白薔薇だった。
アリスはおそるおそる顔を上げて、前を見る。この大量の血が飛んで来たであろう方向を、見る。
そしてさっきよりも大きな悲鳴を上げた。
「何これ、庭が血まみれなんですけど!?」
そこは今までのような通路にはなっておらず、正方形の広場になっていた。周りは薔薇の茂みで囲われていて、中央には白い石造りの東屋まである。
だがしかし、その美しい庭園は血に染まっていた。白薔薇は赤く染まり、芝生も真っ赤だ。薔薇の葉の先からはぽたぽたと血が伝い落ちている。
そして何よりも、そこら中に転がる生首。それと繋がっていただろう四角い体。
「あー……女王の仕業やな」
「やっぱり人間殺してんじゃん!」
「落ち着きや、アリス。これ、人間やないで」
白ウサギが落ちていた生首の一つを抱え上げ、アリスに見せた。そこで彼女もようやっと気づく。生首はやたらとコミカルな顔をしていた。人形だ。
どうりで虚ろな目をしていると思った。
そしてよく見れば、庭に転がっている首なしの体も人間のものじゃない。それはアリスの背丈ほどもある大きなトランプだった。それぞれに黒いスペードのマークと数字が書かれている。
「やや、これは白ウサギ様」
「うわっ、喋った」
白ウサギの手に抱えられた生首がぱっちりと目を開けて喋り出したので、アリスは仰天して飛び退いた。
「また派手にやられたなぁ」
「ご安心を。これくらい慣れたものでございます。つきましては一つお願いがあるのですが、私を体のあるところまで運んでくれませんかな。いや、何。このまま体のもとまで転がっていくのは目が回って仕方ないのです」
「おう、お安い御用や。えーと、スペードのエース、エースっと……」
ごく普通に生首に対応している白ウサギを、アリスは少し離れたところで見ていた。
無事に体を取り戻したスペードのエースは、アリスの姿を見て歓声を上げた。
「やや、これはアリス様ではございませんか! おうい、皆の者、アリス様がいらしったぞ! いつまでも寝ておらんで、はよう起きたまえ!」
スペードのエースが声を上げると、方々から「なにぃ〜」だの「早く起こしてくれ〜」だの「俺の体はどこいった〜」だのと、声が聞こえてくる。
「あの、どうぞお構いなく」
「アリス様も同胞たちを元に戻すのを手伝ってくれますかな?」
「ああ、はい……」
こうしてアリスは、手と足と頭がついたトランプの庭師たちと、女王が血塗れにした庭を片付けることになった。
「うさぎ……なるべく早く扉探して欲しい」
「え? ははは、アリス。焦りは禁物やで。ゆっくり探せばええやん」
「アホか! こんなクレイジーな世界長くいられるわけないでしょうが!」