第5話 ハートの女王
「だってあなた、男じゃないですか」
そう。赤いドレスを着たブロンドヘアの可憐な『女王』は残念なことに少年だった。どうりで背が高いわけである。
「何で男なのに女王なんですか」
「この国の王は女がなるってしきたりなんだが、王位を継げるのが俺しかいなかった。それでこんな不愉快な格好をしているというわけだ」
「へえ……」
変わったしきたりだ。そしてここは、なんて変わった国なのだろう。王様が女装した少年だなんて、ちょっと信じがたい。さすが『不思議の国』である。
アリスはひとり納得していた。
「何はともあれ、不思議の国へようこそ、アリス。私たちはあなたを歓迎する。今日は突然のことでお疲れだろう。部屋を用意させたので、この後はゆっくりと休まれるがよい」
「ああ、いえ、申し出は有り難いのですが、お断りします。もう帰るので」
ここで、女王の美しい柳眉がぴくりと寄った。
「……あなたは何を言っているんだ」
「ですから、もう不思議の国は充分に堪能したので、そろそろ帰ります、と……もともと日帰りのつもりでいたので」
女王の眉間の皺は、消えるどころか深くなるばかりだった。
どうしたんだろう、何か不快にさせるようなことを言っただろうか。
だんだんと不安になってきて、頼りの白ウサギを横目で伺う。ところが彼は、額を押さえて俯いていた。その様子といったら、まるで許されざる失態を働いた人間のようである。
女王はそんな白ウサギをじと目で睨みつけた。
「……おい、白ウサギ」
「ほんまにすまんかった」
「お前なにも説明してないな?」
「減給処分は勘弁してや……」
「なに言ってるんだ、そんなことするわけないだろう。お前向こう一ヶ月タダ働きな」
こう言われると、白ウサギは完全に沈黙した。左隣で重苦しいため息が吐き出される。アリスは何が何だかわからないままだ。
「……あの、つまりどういうことですか?」
「アリス、それは俺から説明させてもらうわ」
見るからに沈んでいた白ウサギだったが、すぐに気持ちを切り替えて仕事に取り掛かった。
「まず、すまん。俺が言葉足らずやった」
「え、うん……?」
「『アリス』は、一度この世界に落ちてきたら、自分の意思では帰れへんのや」
音の繋がりを文章として理解するまでに、数秒を要した。
帰れない。
その言葉が重石となって、胸の上にのしかかる。
「……どういうこと?」
硬い声で聞くアリスに、白ウサギは気の毒そうに目を伏せた。
「歴代のアリスは、いずれもある日突然行方を眩ませとる。茶会の途中、部屋でくつろいどったとき、森を散策しとったとき……ふとしたときに、アリスは突然、この世界から消えてまう。せやけど、自力で帰ったっちゅう記録は一つもあらへん」
話を聞いているうちに、最初に感じた驚きは薄れていった。その代わりに、背筋を這い上ってくるような恐怖が広がってゆく。
青ざめているアリスを見て、白ウサギは慌てた様子で付け足した。
「どのアリスも長くて一年……早ければ半年くらいで帰ってるで。待っとったらいずれは帰れるんやから、そないに気落ちせんでも……」
広い謁見の間に、重苦しい沈黙が訪れる。しばらくは誰も言葉を発さなかった。
「……うさぎは」
水を打ったように静まり返った空間に、掠れた声が波紋を起こす。
「私のいた世界にいたよね? あれってどうやったの?」
「あれは……」
少し言い淀んだ後、白ウサギは言いづらそうに口を開いた。
「ラビットホールの中に、扉がぎょうさんあったやろ? あれは全部、どこかの世界のいつかの時間に繋がる扉や。俺はある扉をくぐって、君のいた世界へ行った」
「じゃあ、その扉をくぐれば……!」
白ウサギは哀れむような目でアリスを一瞥し、力なく首を振った。
「無理やな。くぐった扉には何の印もつけてへんし、何処にあるのかわからへん」
「くぐった扉を全部覚えてるんじゃないの? だって、ラビットホールの中をあんなに迷いなく歩いてたんだから……」
「俺かて全部覚えとるわけやないよ。覚えとるのは不思議の国の主要な扉がいくつかだけや。異世界の扉まではわからへん」
アリスは力なく項垂れて拳を握った。額に汗がにじむ。
二度と帰れないわけじゃない。待っていれば必ず帰れる。この状況では、それだけが唯一の救いだ。
だけど、最短半年、最長一年、という期間はまずい。何がまずいって、そんなにこっちに滞在していたら留年してしまう。それだけはごめんだ。
「……うさぎ、その扉を探してもらえないかな」
「扉を探すって……そんな非効率的なことせぇへんでも、いずれは帰れるんやで?」
「できるだけ早く帰りたいの。一年も待てない」
きっぱりと言い切る。白ウサギはあからさまに狼狽した様子を見せた。
「せやかて、扉は何千何万もある。その中からたった一つを見つけ出すのは、いくらなんでも無茶や」
「何万……」
腕を組んで、眉間にしわを寄せる。
確かに、そんな数の中からたった一つを見つけ出すのは難しい。闇雲に探し回るだけでは駄目だ。
考えろ、と自分に命じる。
考えろ。考えろ。なにか手がかりはあるはず。帰る方法はあるはず。
じっと考え続けて、アリスははっと息を呑んだ。
「鞄!」
がばりと顔を上げる。目の前で、白ウサギが面食らった顔をしていた。アリスはかまわず彼に詰め寄る。
「くぐった扉の近くに鞄があるはず! 落ちてくるときには持ってたのに、ラビットホールでうさぎに声をかけられたときにはもう持ってなかった。穴の底にもそれらしいものは落ちていなかった。ってことは、ラビットホールのどこかに私の鞄が今も引っかかってるはず」
目を丸くしてぽかんと口を開けている白ウサギに、アリスはさらに言い募った。
「うさぎ、ラビットホールで私の鞄を探して欲しい。紺色の生地で、灰色の取っ手が付いた長方形の鞄」
真正面から白ウサギの目を見上げて、アリスはどんと自分の胸を叩いた。
「私も私で元の世界に帰る方法を探す。今んとこ具体策はないけど、絶対に手がかりを掴んでみせる」
白ウサギはしばらく呆然とした顔でアリスを見つめていたが、やがて力強く頷く。
「……わかった。見つかるかどうかは分からへんけど、やるだけやってみるわ」
「ありがとう」
まだ手がかりは残っている。扉が見つかる可能性はある。
現状を嘆くより先に、前に進むことを考えなくちゃいけない。
心に決めて、アリスは屹然と顔を上げた。
「話は纏まったようだな」
いつの間にか玉座に座り直していた女王が、よく通る声で言った。足を組んでトントンと指で肘掛を叩くさまは、早くこの場から立ち去りたいという彼の思いを顕著に表していた。
「はい」
アリスは凛とした声で女王に答えた。女王はそんなアリスを見下ろし、ゆっくりと口を開く。
「よろしい。滞在中の衣食住についてはこちらで用意するので心配するな」
「後で高額の滞在費を要求されたりしませんか」
「しない。アリスは基本的に国賓として扱われる。金の請求は一切しないので、あなたも自由に振舞われるとよい。何か不満があればそちらの白ウサギに申し付けるように」
なんて好待遇の居候なんだ。
アリスは密かに感動した。住むところも食事も着るものまで、全部面倒を見てくれるらしい。
「あの……ありがとうございます。お世話になります」
上品なお礼の言い方なんて知らなかったので、普通にお礼を言ってぺこりと頭を下げた。女王は少し目を細めて、どこか興味深そうな顔で見てくる。だがそれもつかの間、すぐに視線を逸らした。
「では私は下がる。お前達も下がってよい」
女王は玉座のある壇から下りて、横にある小さな扉から出て行ってしまった。