第3話 迷いの森のチェシャ猫
白ウサギは、苦い顔をして立ち上がる。彼は憎たらしそうに、アリスを抱きかかえて樹上に立つ女を睨んでいた。
「お前な、最初の蹴り、首狙ったやろ! 折れたらどうすんねん!」
「ふふ、折れちゃえばよかったのに」
「ああ? ふざけんな!」
「やだ、こわーい」
チェシャ猫と呼ばれた女は、馬鹿にしたようにくすくすと笑っていた。
腰まで届く長い髪はあざやかなワインレッド。瞳は月のような黄金色をしている。着ているものはいやに露出度が高く、ショートパンツと上はチューブトップのみだった。そのチューブトップというのも胸のみを隠すタイプで、くびれた腰は大胆に晒されている。そしてチェシャ猫という呼び名に相応しく、頭には当然のように猫耳がついていた。
この世界の人って全員けも耳付きなのだろうか。
猫耳を眺めながら、アリスは呑気にそんなことを考えていた。
「腑抜けたうさちゃんには、アリスはまかせらんないなぁ……」
チェシャ猫はにやにや笑いで白ウサギを見下ろす。
「ね、白ウサギ。この子あたしにちょうだいよ」
「ふざけんな、とっとと返しぃ。女王が待っとるんや」
チェシャ猫はくすくすと笑いながら、アリスの顎をくいと持ち上げる。アリスと彼女の唇は、今にも触れ合いそうなところにあった。白ウサギは苦い顔をする。
「……アリスに変なことするつもりやないやろな」
「百合だって需要あると思うのよねぇ。あたし、アリスみたいな可愛い子、好みだし?」
「冗談もほどほどにしとき。アリスも嫌がって……」
白ウサギは途中で言葉を止め、それから何とも言えない顔をした。
妙な沈黙がその場を満たす。アリスは御構い無しに、チェシャ猫のふんわりと膨らんだ胸を揉んでいた。もにゅもにゅもにゅと、それはもう一心不乱に。
「……あの、やめてくれない?」
さすがのチェシャ猫もこれには困ったようで、苦笑いを浮かべながらこう言った。アリスは胸を揉んでいた手を離し、失礼、と謝る。そしてその後に真顔で続けた。
「しかし、胸大きいですね。何カップですか?」
「なにこの子セクハラ……」
「そっちこそいきなり乱入してきたじゃないですか。フィフティフィフティですよ」
アリスが大真面目に言うと、チェシャ猫は思いっきり顔をしかめた。
「……もぉ何なのこの子。白ウサギ、パース」
「うおっ!?」
チェシャ猫はゴムまりみたいにぽいとアリスを投げる。白ウサギはぎょっとしながらも投げられたアリスを受け止めた。突然のことだったので、少しよろけている。アリスを地面に降ろすと、彼は樹上の女を睨んだ。
「……おい! 粗雑に扱うなや! 仮にもアリスやぞ!」
「仮にもってなんだ」
「うるさいよ、うさちゃん。アリスって変な子ね。まあそのくらいのが、この国ではやっていけるんじゃない」
白ウサギもチェシャ猫も、アリスの突っ込みは黙殺して言い合いを続けた。チェシャ猫はふわりと木の上から飛び降りて、見事に地面に着地する。
「あたしが案内するわ。迷いたくなけりゃ大人しく着いてきなよ」
「ん? 珍しいな。ずいぶんと殊勝やないか」
「あたしはアリスも白ウサギもどうでもいいんだけどさ、夫人の頼みだから」
「ああ、なるほどなぁ」
夫人って誰だろう。ていうかチェシャ猫さんて何者なんだろう。
聞きたいことは色々あったが、とりあえず質問は一つだけに絞ることにした。
「……えーと、さっきの襲撃っぽいのは何だったんですか? あれ必要ありました?」
「ああ、あれ」
チェシャ猫はにんまりと笑う。
「白ウサギへのイヤガラセ。見事に蹴り喰らってやんの。だっさ」
「相変わらずええ性格してんなぁ。その尻尾引っこ抜いたろか」
「あっそ、やってみな。あんたのウサ耳を先に引きちぎってやんよ」
二人の笑顔での嫌味の応酬は森を出るまで続いた。よくも罵倒のことばが付きないものである。アリスはすっかり傍観を決め込んでいた。
「じゃあねお二人さん。女王によろしく」
「おう。案内おおきにな」
「ありがとうございました」
アリスと白ウサギが揃ってお礼を言うと、チェシャ猫は振り返って肩越しに笑った。その瞬間、強く風が吹く。その風に目を瞑った一瞬で、彼女は姿を消した。
「……消えた?」
「あいつ、身軽やからな。神出鬼没やし」
白ウサギは疲れたようにため息をついた。その拍子に、赤い色が視界の端に引っ掛かる。
「うさぎ。腕」
「ん?」
「怪我してますよ」
彼の腕には軽い擦り傷が出来ていた。血が出ている。
「ああ、さっきあいつと戯れたときやな。ったく、あの猫……」
「これ、どうぞ」
アリスが差し出したものを見て、白ウサギは目をぱちくりさせる。
「絆創膏持ってるほど女子力高くないけど、ハンカチなら持ってました。どっかに引っ掛けないように、一応巻いときますよ」
「ああ、おおきに。アリスは優しい子やな」
「それほどでも」
適当に返事をしながら、患部にハンカチを巻きつける。多少不恰好だが、応急処置だから仕方ない。
「アリス、ほら。もう見えたで」
「何がですか?」
顔を上げて、白ウサギが指差す方を見やる。
鬱蒼とした木々、濃緑の葉のモザイクの向こうに、高い壁と、立派な建物が聳えていた。白亜の壁に赤い瓦の三角屋根。遠目から見ても美しいバランスの取れたシルエット。
そう、あれはどう見ても。
「城や」
せやな。
よっぽどそう言い返そうかとアリスは思った。