第2話 ガラクタ箱とキノコの森
穴の底はおかしなところだった。
白と黒のチェッカー模様の床がどこまでも続いていて、壁らしきものはどこにも見えない。周りには大きさもデザインも様々な扉が不規則に並んでいた。他にも茶会用のテーブルや、綿のはみ出た大きなテディベア、古い柱時計や絵の入っていない額などが無造作に置いてある。
白ウサギはそんなおかしな場所を、迷う様子もなく歩いていった。欠けた食器が並ぶ棚の間を通り抜け、捻じ曲がった階段の下を潜り抜ける。彼はときどき目印を確認するような素振りを見せたが、アリスにはさっぱり分からない。
「ここは、一体何なんですか?」
「ラビットホールの中や」
「うさぎ穴?」
「ガラクタ箱て呼ばれることもある。あらゆる空間と時間が交差しとる、けったいな場所や」
「よく分かんないけど、なんかすごそうですね」
「ちゃんと付いて来ぃや。はぐれたら死ぬまで外に出られへんで」
「死ぬまでって……」
思わず後ろを振り返る。チェッカー模様の床と壁のない空間が延々と広がっており、不気味な印象を与えた。これは確かに、迷ったらまずそうだ。
というか、そんな場所を躊躇うことなく進んでいけるこの人は何者なんだ。
アリスは前を行く白ウサギの背中を眺めやり、じっと考え込む。そんなことをしていると、不意に白ウサギが立ち止まった。
「あったあった、これやな」
白ウサギはそう言いながら、いつの間にか目の前にあった赤い天鵞絨の幕をかき分ける。その向こうには、大人が腰をかがめてやっと通れるくらいの小さな扉があった。
「これは?」
「出口や」
白ウサギがドアノブをひねり、がちゃりと扉を開ける。その向こうに見えるのは、さんさんと光の降りそそぐ森だった。
まず先にアリスが扉をくぐり抜け、その後から白ウサギがくぐる。青々とした森の匂いをかぎながら伸びをしたアリスは、はたと気がついて振り向いた。
「そういえば、どうして森の中に扉なんか……」
そのときにはすでに、木の幹についていた小さな扉は消えようとしていた。扉は瞬く間に木の表面と同化し、何もなかったようになってしまう。
「……うさぎ、扉が消えてるんですが」
「まあまあよくあることやで」
あっさり流された。まあまあよくあることって何だ。そんなことがよくあったら安心して扉を潜れない。
一人で悶々としていると、ふと視界の端に何かが掠めた。顔を上げて、アリスはぽかんと口を開ける。
それは、バターのついたパンの羽をひらつかせた蝶々だった。その後ろからは、頭が干しぶどうでできたトンボがやってくる。
「……すごい」
「ああ、そいつらは捕まえたら食えるで」
「そうなんですか!?」
「バタつきパンチョウなんかは頭が角砂糖で出来とるから、そのまま食うのはなかなかキツいけどな。たいがいは庭で茶会を開いたときに捕まえて食べる。角砂糖は紅茶に入れて飲めるし、バタつきパンチョウの餌はクリーム入りの紅茶やから、向こうから勝手に寄ってくんねん」
「へえ、面白い……」
アリスはすっかり感心してしまった。
わずかにあった警戒心もなくなって、興味津々であたりを見回す。
バタつきパンチョウの他にも、羽がインクに浸したパピルスでできた蝶がいたし、宝石でできたラズベリーの実が生っていた。木立の間ではコマドリが歌っていて、その体はよく見ると緑の苔でできている。胸元には赤い小さな花が咲いていた。
「色んなものがあるんですね」
「面白いやろ?」
「とっても」
大きく頷いて、アリスはもう一度あたりを見渡す。そしてふと気がついた。
「なんだかキノコが多くなってきたみたい」
「ああ、もうすぐキノコの森に入るからな」
白ウサギの言った通り、しばらく歩くと木よりもキノコの方が多くなってきた。まさにキノコでできた森だ。
「私の身長の五倍くらいあるキノコもあるんですが」
「言ったやろ、アリスの背丈よりでかいキノコもあるって」
「言ったけど、これはもはやキノコじゃなくて木じゃないですか」
アリスははるか頭上にそびえるキノコの傘を見上げ、雨宿りにちょうどよさそうだな、ととぼけたことを考えた。
赤い傘に白い斑点がついたキノコ、オーソドックスな茶色のキノコや白いキノコ、中には紫なんて頓狂な色のものまであった。傘のかたちも柄のようすも様々で、見ていて飽きない。
そうしてアリスは色とりどりのキノコたちを眺めながら歩いていたが、ふと立ち止まって眉をひそめた。
「……なんかこの辺、煙くないですか?」
気がつけば、周りはすっかり煙で曇っていた。まるで霧の中にいるようだが、その煙にはかすかに甘い匂いが混じっていた。
「ああ、そりゃー多分、あれやろなぁ」
もうもうと立ち込める煙を払いながら、アリスは白ウサギの指差した方を見る。そこには、アリスの背丈ほどの高さのキノコの上に乗った、白い髪の老人がいた。老人は悠々と煙をふかし、さらに辺りを煙たくしている。顔は皺くちゃで厳しく、近寄りがたい印象を受ける。
「……誰ですか、あの人」
何となく小声になる。すると、何故か白ウサギもアリスに顔を近づけてひそひそと喋り始めた。
「芋虫の爺さんや。気ぃつけや、あの人説教垂れやから。ここは目を合わせず、こっそり立ち去るのが正解……」
「言うにことかいて説教垂れとな」
ところが言い終わらないうちに、芋虫の鋭い声が飛んだ。どうやら話が聞こえていたらしい。白ウサギはその声で頭を殴られたかのように、ぴしりと背筋を正す。
「……お久しゅうございます、芋虫の旦那様」
可哀想に、その顔はすっかり青ざめていた。
老人はゆったりとした動作で、また煙を吐く。
「そこに直れ、白ウサギの小僧」
結局二人は芋虫の説教を聞くことになった。説教をされていたのは主に白ウサギで、アリスはそれに付き合わされる形になった。
十数分も小言が続いた頃、芋虫がやっと口を休ませた。
「——ところで、そちらのお嬢さんはひょっとしたら『アリス』かね」
「はい」
いきなり話を振られて狼狽えたものの、アリスは何とか返事をした。
「そうかね、今回はずいぶん早かったの……」
「早かった?」
「いいや、何でもない。忘れなさい……して、アリス。お前さん、これから何処へ行くつもりかね」
「女王陛下のところです」
ここで芋虫はまた盛大に煙を吐き出した。真正面から煙を吹き付けられて、アリスも白ウサギもけほけほと咳き込む。
「……そうかね、気をつけてお行きよ」
「あ、ありがとう、っございます……」
あまりの煙たさに喉を詰まらせながら、アリスはなんとかお礼を言う。
「では、陛下をお待たせしているので私たちはこれにて失礼します。また近いうちにご挨拶にお伺いしますので」
「来んでいい、能天気がうつる」
これには乾いた笑みで答え、白ウサギはアリスを連れて脱兎のごとく逃げ出した。
「理不尽に理不尽で歯向かおうとするでないよ。それは結局のところ、悲劇を呼ぶから」
薄れてゆく煙にまぎれて、しゃがれた声が聞こえた気がした。アリスは振り返るが、もう芋虫の姿は見えない。
そのときは、聞き間違いだったかと首を傾げただけだった。この言葉をはっきりと思い出すのは、もっとずっと後のことになる。
*
白ウサギに連れられて歩いていくと、やがてキノコの森を抜けて、木々が立ち並ぶ普通の森に入った。
その途中、木の枝にかけられた赤い看板がアリスの目を引いた。
Don't look back
——背後を見るべからず
更にその下に、もう一回り小さな看板が鎖で吊られていた。
Watch out for the cat!
——猫に気をつけて!
どちらの忠告も、何のことを言っているのだかよく分からない。
「アリス、俺から離れんといてな」
アリスが看板に気を取られていると、隣を歩く白ウサギが硬い声でそう言った。心なしか表情も硬く、視線はまっすぐに前を見ている。茶色の長い耳は、ぴんと立っていた。
何かに警戒しているように見える。
「……何でそんなこと言うんですか?」
「何ってそりゃ……」
白ウサギが言い終えるより前に、銀色の光が煌めいた。
かかっ、と小気味良い音とともに、二本のナイフがアリスのそばにあった木に刺さる。硬直したアリスの横で、白ウサギがはっと息を呑んだ。
ざっ、と木の上で物音がした。
直上に何かいる。
アリスがそう感じた時には、白ウサギは頭上から繰り出された蹴りを身をかがめて避けていた。
目にあざやかなワインレッドが、視界にひらめく。
突然の闖入者は木の上から地上に降り立ち、地面についた手を軸にしてさらに蹴りを繰り出した。
最初の攻撃でバランスを崩した白ウサギは、すぐに防御の姿勢を取れない。無防備な鳩尾に、鋭い一撃がクリーンヒットした。
「ぐっ……」
体をくの字に折って咳き込み、彼はそのまま崩れ落ちた。
ここまでが数秒の出来事だ。アリスなんて目で追うのが精一杯で、白ウサギを心配する言葉もとっさに出てこなかった。
何も出来ずにいるうちに、アリスは強い力で腰を引き寄せられて、そのまま俵のように抱えられた。突然の闖入者は、アリスを抱えたままだんっ、と地を蹴る。
その人物は、危なげなく木の上に降り立ち、アリスの膝を掬って横抱きにした。
呆然としているアリスの耳元で、闖入者はくく、と嗤う。
「白ウサギ、鈍ったんじゃない?あたしの気配に気づけないなんてさ」
アリスの視界に、ワインレッドの長い髪がちらつく。
「チェシャ猫……!」
はるか木の下で、白ウサギが悔しそうに歯噛みしていた。
※チョウとトンボは本家、チョウ(パピルスの方)とラズベリーとコマドリは夢幻の国オリジナルです。
クオリティの違いが明らかすぎて一目瞭然ですね!