第1話 うさぎとアリス
気がつくと、そこは知らない場所だった。真っ暗な井戸のようなところだ。井戸にしては広いし、真っ暗な割にはくっきりと物が見えるけれど。
本や何かが並べられた棚が、円形に少女を取り囲んでいた。棚はずっと底まで続いているようで、途切れることがない。
そんな不思議な場所を、少女はゆっくりと落ちていった。
「おっかしいなぁ……」
首を捻り、うーんと唸る。
「受け身取ってんのに、一向に地面が来ない……」
ずっと同じ体勢でいるのも疲れてきたので、やめたやめたと呟いて足を伸ばした。いつまでも見えて来ない地面のことなんか考えるのはやめて、別のことを考える。
「私、どうしてこんなところにいるんだっけ」
どうにも記憶がはっきりしない。ずっとずっと長い間眠っていて、目覚めた直後のように、頭に霞がかかっている。
スカートをつまんで、少し考えてみる。見慣れた紺色のスカートだ。
「あー、ちょっと思い出してきた。確かついさっきまで下校途中だったような」
それで、帰り道に変なものを見たのだ。
「んーと、何だったっけなぁ……」
必死で頭を悩ませていたそのとき、目の前でぽんと音を立てて光が弾けた。ぱらりと数枚のトランプが舞い、ずっと底まで落ちていく。
「ご機嫌麗しゅう、アリス」
突然そこに現れた青年が、紳士的な挨拶とともに一礼した。返事ができなかったのは、滅多に聞かないようなキザったらしい挨拶に戸惑ったからではない。彼の頭に、ウサギの耳がついていたからだ。
「っ、あぁあー!!」
少女が叫ぶと、青年の耳がぴんと伸びる。突然大声を出されて驚いたのだろう。お構いなしに、少女は続ける。
「ウサギだ! 本屋に変なウサギがいた!」
ああ、すっきりした、とため息をつく少女の前で、青年はしばらく戸惑った顔をしていた。だが、やがて合点がいったようにぽんと手を叩く。
「ああ。お嬢さん、時計を拾ってくれたんやってな。ほんま、おおきに」
「ああ、はい。どういたしまして……」
少女はちらりと青年の頭から生えているうさ耳を一瞥したが、何も聞かないことにした。だって突っ込んだら面倒臭そうだ。
目の前にいる少女がそんなことを考えているのを知ってか知らずか、青年はにこりと微笑んで言った。
「何はともあれ、ようこそアリス。君はこのたび358人目のアリスとして、この不思議の国に招待されたんや」
「……アリス?」
目を瞬かせる。
不思議の国。アリス。白ウサギ。誰でも知っている有名な童話のモチーフだ。
「あの、人違いです。私、純日本人だし。だいたいアリスなんて名前じゃない」
「じゃあ本当の名前はなんていうん?」
青年はにこりと笑って問いかける。少女は答えようとして——答えられなかった。
「私……わたしは」
あるはずの答えを、探し当てようと必死でもがく。だけどその行為は悪あがきにしかならなかった。
「私」を満たしていたはずの答えが、そっくり消え失せている。
「思い出せへんのやろ」
青年の言い方は、特に嫌みたらしいものではなかった。だけど何となく嘲笑われている感じがして、少女は無言で彼を睨む。
「今は記憶が混乱しとるやろうけど、そのうち綺麗に思い出すから安心しぃ。せやけど、全部思い出しても本当の名前は誰にも明かしたらあかんで」
「……何で?」
「何でもなにもあらへん。とにかく絶対に、名乗ったらあかん。俺は白ウサギ。君はアリス。それでええやん。呼び方なんて瑣末な問題や」
物腰は柔らかいけれど、反論を許さないような言い方だった。少女は注意深く青年の表情を伺い、そして長いため息をつく。
「そうですね。確かに、呼び方なんて瑣末な問題です。じゃあ私も、お兄さんのことは白ウサギさんと……」
白ウサギさんと呼びますね、と言いかけて、口をつぐむ。
アリスは目の前の青年を頭から爪先までじっくりと見た。
「……白くないじゃないですか」
そう、白くないのだ。
青年の髪とうさ耳は白ではなく、ミルクを混ぜた紅茶のような茶色だった。
「えっと、ほら、いま夏やろ?冬は白くなんねんけど」
「どうでも良いです。白要素がどこにもないので、うさぎって呼びますね」
「うーん……」
頑なに白を否定するアリスに、青年は困った顔をする。しばらく悩み抜いてから、彼は仕方なさそうに笑った。
「まあ、ええよ。そんな拘ることでもあらへんし」
というわけで、アリスは彼を「うさぎ」と呼ぶことになった。
「さあ、アリス。さっそく女王へ会いに行こか」
「女王?」
「不思議の国の統治者や。住人には「ハートの女王」って呼ばれとる」
「はあ、でも……」
「道中で森も通るから、ちっとばかし案内も出来るで。アリスのいた世界にはない、面白いもんがぎょーさんある。バタつきパン蝶に、燃えぶどうトンボ、木馬バエ。喋る花に、アリスの背丈より大きいキノコなんかもある」
アリスはちらりと上を見上げる。はるか頭上にあるはずの元の世界は、暗闇に包まれていてもう見えなくなっていた。
確かに、不思議の国の冒険は面白そうだ。平凡な日常に退屈していたアリスには、それは甘い蜜のような誘いだった。
——少しだけ。少し見たら、すぐ帰ろう。
心の中で呟いて、アリスは白ウサギに視線を戻した。
「面白そう。じゃあ、案内してくれる?」
「よっしゃ、決まりやな。そんじゃあ、ちょっと失礼」
「えっ」
ぐいっと手を引っ張られて、アリスは面食らう。白ウサギはアリスの手を掴んだまま、思いきり壁——もとい、周囲を取り囲む本棚を蹴った。
瞬間、ものすごい勢いを伴って体が下へ落ちていく。ジェットコースター並みの速さである。後ろに流れた髪が風にあおられて、スカートの生地がバタバタと音を立てる。
「ちょっ、これやばいですよ」
「大丈夫、大丈夫……そら、もう底が見えてきた」
「って、ぶつかる! 死ぬ!」
アリスもさすがに悲鳴を上げるが、チェッカー模様の床は容赦なく目前に迫ってくる。
叩きつけられたトマトのように潰れる未来を想像して、きつく目を瞑ったそのとき。
ごう、と風が吹き上げた。
次に目を開けたときには、白ウサギは何事もなかったかのように地面に足をつけていた。いつの間にか彼に横抱きにされていたアリスも、そっと降ろされる。
「あの、もうちょっと穏便な着地方法なかったんですか?」
「ちんたら落ちるのも面倒やろ」
この男、見てくれは紳士っぽいのに微妙にがさつだ。
アリスがむっつりと口を閉ざしているのに気づいた様子もなく、白ウサギはアリスの手を引き、無邪気に笑った。
「ほな、行こか!」