夢幻の国
あのとき、ウサギを追いかけなければよかった。
後になって何度後悔したか、数えても分からないくらいだ。
走り出したときには既に、不思議の国への扉は開き始めていたのだ。
かつん、と硬質な音をたててそれは落ちた。金色に光る懐中時計だ。時計についた細い鎖がしゃらりと落ちてゆく。
少女はそれを拾い上げ、前を行く青年に声をかけた。
「あの、落としましたよ」
青年は聞こえていない様子だった。白いシャツに黒いスラックスを着た青年で、頭には焦げ茶のキャスケット帽を被っている。イギリスの絵本の中から抜け出してきたようないでだちだ。
彼はすい、と路地の奥へ消えてしまった。
「ああ、もう」
少女は仕方なしに人混みをかき分け、彼と同じ路地に入る。『CLOSE』と看板が掛けられた店の前を通り過ぎ、塀の上から張り出したコデマリのそばを通り抜けて、少女は青年を追いかけた。こんな路地あったっけ、と不思議に思う。そこはまるで迷路のように入り組んでいた。
彼を追いかけて二つ目の角を曲がると、その先の店に入っていくのが見えた。
古書店だ。ずいぶんアンティークな佇まいで、レンガの壁にはツタが這っている。
懐中時計を左手に持ち、少女は古書店の扉をくぐった。
夕暮れ時の店に、人はいなかった。夕日の光が店内の埃っぽい空気をきらめかせている。普通なら店主が座っているはずの帳場には、誰もいなかった。店には所狭しと古本が並べられている。古い紙の匂いがした。
奥へ進むと、棚の間の狭い廊下に目当ての青年の姿を見つける。
「あの、これ落としましたよ」
左手に乗せた懐中時計を差し出すと、彼は素早くその手を掴んだ。
「見つけた」
「え?」
ごう、と下から強い風が吹いた。驚いて足元を見ると、床がない。床に積まれていた本がばさばさと黒い底に落ちていく。
「な……っ」
風にあおられて青年の帽子が飛んだ。その下からあらわれたのは、茶色いウサギの耳だ。
成人男性がウサ耳カチューシャをつけているという衝撃に頭が真っ白になる。
男は強風の中で爽やかな笑顔を浮かべる。
「ようこそ、アリス——不思議の国へ」
訳もわからないまま、少女は「落ちた」。暗い暗い穴の底へ。
あのとき、ウサギを追いかけなければよかった。
そんな後悔は数え切れないほどした。
だけど、たった一度だけ逆のことを考えたことがある。
あのとき、ウサギを追いかけてよかった。
そう思うことができたのは、この時から随分後のことになる。
不思議の国への扉は、開かれた。