手首
手首を売っていた。
* * *
リヤカーを引いて移動している人。
仕事からの帰り道、気が滅入ることもあり、疲れた身体をおして家に辿り着く直前、人通りの少ない道にぽつんと生えている大きな木の下で私はそれに出会った。車を引いている人の顔は見えない。髪はぼさぼさで表情は見えず、着ている服もどこか薄汚れているからだ。浮浪者なのかもしれない。だから特に気に留めることもなく、どちらかというと早足ですれ違おうとして。
「――いらないかい?」
その人からぼそりと声が漏れた。周りを見る、その人以外には私しかいない。いらないかい、ということは何かを売っている人なのだろうか。そう私が思ったところで。
「手首はいらないかい?」
ぼそり、と。注目していたおかげで聞き取れる程度の声で、その人は確かにそう言った。驚いてその人を見ると、汚れて赤黒くなった軍手をはめた縮こまった手でリヤカーを示された。思わず目を遣る。
そこには、手首がうずたかく積まれていた。
あまりに驚きすぎると一回転するのだろう、私はそれを見ても「ああ、手首だな」としか思わなかった。それどころか、まじまじと見つめてしまう。右手左手、大きい小さい、若い年寄り、そこには色々な手首があった。勿論手首だけで動くわけはないので、その全てに断面があり、肉と骨が見えている。たぶんピンク色のものが新鮮で、乾いて紫色になるほど古いんだろう。スーパーの肉と同じだ。
「よかったら、手に取ってみるといい」
手なだけに、とは口に出さず、言われるままに鞄を持っていない方の手を伸ばす。最初に取ったのは小さな手、女の人のものなのだろうか、整えられた爪にはエナメルの輝きが宿っている。だけど、その指先にはこすれたような傷が付いていた。
次に取ったのは大きな左手。ずっしり、ごつごつと節くれ立っているので、これは男の人のだろう。私にはないその大きな掌はいかにもたくさんのものを掴めそうだ。
私は手が、というよりも指がみじかいことがコンプレックスだった。その割に爪は大きく指の幅は広い。簡単に言うと不格好なのである。習い事のピアノは途中で辛くなったからやめてしまったし、学生の頃みんなが軽々掴んでいたボールを掴むのにも苦労した。大丈夫、あなたの手はささくれ一つ起こさない丈夫な手なのよ、と昔母親に言われたことがあるが、あまり嬉しくはない。ちょっとした傷なんてすぐに治る。だから、やっぱり手は見目麗しいほうがいいだろう。
見目といえば、小指の付け根にぽつんとあるほくろも気に入らなかった。右手と左手で、まるで双子のように対称な位置がぽつんぽつんと黒いのだ。
視線を下げ、持っている手に戻す。この手もやっぱり、指先や指の腹がボロボロになっていた。こちらは古いのか、最初のものより血色も悪い。
改めてリヤカーに目を遣ると、どの手もこの手もどこかしらに傷があった。ひどいものは先から手の平、あるいは手の甲までに擦れたような傷がある。だけど、鮮度の差さえあれ、その手達はまるで今にも動き出しそうな、そんな存在感を放っているのだ。
「探しているものはあるかい? よかったら売るよ」
男なのか女なのかも分からない、しわがれた声でそう言われる。ぼさぼさと髪が伸びているので、表情はやっぱり分からない。
リヤカーの中の様々な手首を見る。私はこういうワゴンセールみたいなものが得意ではない。商品をかき回して取る、という行為が嫌なのだ。だからざっと見回して終わりにしよう、そう思ったところで。
「あ」
思わず声が出てしまった。頭で思ったわけではなく、ほとんど反射的に手を伸ばす。カバンを捨てるように地面に置き、両手で。
それは真っ白な、透き通るような肌をした手首だった。手に取ったのは右手だったが、すぐにころん、と左手のほうも山から下りてくる。何故右手と左手とわかったかというと、指の形がどの指も左右対称、まったく同じだったのだ。綺麗に整っている、整いすぎているといってもいい。その一本一本の指はどれもすらっと長く、爪も綺麗な楕円を描いている。もちろんささくれなんかはなく、肌にシミの一つもない。手の甲を触るとすべすべとした感覚が心地いい。手の平はそれほど大きくない。けれど、指の長さが十分それをカバーするだろう。それに、指が長いけれど手の平も大きいと、それはただの大きな手首だ。綺麗な手首じゃない。
つまり、それは理想の手の形だったのだ。
思わず顔を上げると、ぼさぼさの前髪の奥にあるのであろう目と私の目が合った。
「気に入ったものは見つかったかい? 安くしておくよ」
安くしておく、そう、具体的に値段の話が始まったところで。
「あ……お金、ないんです」
そうなのだ。私は今日、財布を落としていた。全て別にしていたのでカードの類の心配はないのだが、数万円を無くしたのはやはり痛い。だから、私はしぶしぶとその手首を返そうとして。
「どうせそれが気に入ったら戻さないだろう? だから、交換でいいよ」
いつの間にかリヤカーを押していた人が目の前にいて、さらに私の両手をぽん、と押した。
ぼてん、とまぬけな音がする。
あ、と思う間もなく私の両手首は手首の山に埋もれていた。ということは今、私には手首がないんだろうか。私は手が合った場所を恐る恐る目で確認する。
両手首はきちんとそこにあった。
――さっき手にした綺麗な手首になっている。
真っ白で、血管が透けて見えそうなほど綺麗な肌。長い長い指、綺麗な爪。その全てを兼ね備えた理想の手だ。何度か開いたり閉じたりする。動きに支障はないどころか、今までよりもなめらかに動く気さえする。
「ありがとう」
私はそう口に出していた。
「毎度あり」
しわがれた声で返事が返ってくる。それ以上言葉は交わさず、きぃ、と小さな音を立ててその人はリヤカーを引き、私とすれ違うように進んでいく。すぐに音は聞こえなくなった。
目を落とす。形どころか、手相までもが対称な、理想の手首。私はもう一度それを確認すると、さっき落としてしまった鞄を拾い、家へ帰るために前へと歩き出した。どことなく、鞄も軽くなったような気がする。
* * *
次の日。なんとなく仕事に向かおうとする気分も軽い。もちろんそれは昨日の出来事のおかげだ。というか、昨日あんな出来事が本当にあったのか、それ自体が既に疑わしい。簡単に手首がすげ替えられるはずがないし、手首をあんな風に売っているということ自体がナンセンスすぎる。それに、手首を積んで歩いている人がいれば流石に私も叫ぶなり、驚くなりするはずだ。
自分の手を見てみる。すらっと長い指、楕円に整えられた爪、シミ一つ無い綺麗な肌。そう、これこそが本当の自分の手だったのだ。ただ自分はその魅力に気付いてなかっただけで、何かのきっかけでそのことに気付いたのが昨日だったのだ。財布を落としたのがよかったのかもしれない。ショックを埋めるために、神様が自分の持っていた良いところを見えるようにしてくれたのだ、そうとさえ思う。ちなみに財布は出てくる気配すらない。中身はともかく、財布自体も高かったのに。
「そういえば、あなたの手って綺麗よね。羨ましいなぁ」
営業に出かけた先ではそんなことを言われた。そんなことないですよ、と曖昧に笑って返したが、内心はそうだろうそうだろうと言いたい気持ちでいっぱいだった。
その日の昼食時、たまたま集った人間の中で、たまたまコンプレックスの話になった。やれ背が低いだのニキビが多かっただの、やはりみんなどこかしら自分の身体に気になる部分があるようだ。しかしもう私はそんな悩みとは無縁で。
「そういう君はどうなのさ?」
こう聞かれても。
「特にそういうのはないかなぁ」
手を組み、胸の前に持ってきながら、したり顔でこう答えるのである。私はずっと前から欲しかったおもちゃを買ってもらった時のように、無意味に手を閉じたり開いたり、組んだり伸ばしたりしていた。こころなしかみんなも私の手元に注目しているような気がする。とても気分が良かった。
食べ終わった後、お手洗いで手を洗った後、ふと両手に目がいく。ついつい顔がにやけてしまう。本当に綺麗な手だ。しゅっとして、すべすべで、つるつるだ。ああ、私はナルシストの気があったんだな、と思ってしまうが、手を見てにやにやするのをやめることができなかった。
そして夜。いわゆる定時は過ぎていたが、私は残業を引き受けていた。それも自分から。なんだか一日気分がよくて、頼まれることも嫌と思わなかったのだ。
その中には書類の整理もあった。何のことはない、ホッチキスで留められた何部かの書類をバラして別の分類にするとか、ファイルに入れ直すとか、そんな単純作業である。自分ではそうは思わないが、私はこの手の作業に向いているらしく、いつも「器用だね」と言われながら手早く書類を捌けていた。そんなつもりはないのだが、みんなよりも早く終わる辺り本当にそうなんだろう。そういえば折り紙とか粘土工作も得意だった。そんなことを思い出す。そして、何より今日はこの手がある。これだけ綺麗な手になったんだから、作業もさぞはかどるだろう。そう思って、普段より多めの量を残してある。
だから、今日もそれを最後の仕事にしようと思い、他の仕事を片付けたところで取りかかる。まずホッチキスを外して、次に必要なものをまとめて……
ぼさり。
思いっきり書類の束を取り落とした。慌ててしゃがむ。えーと、なんでだろう。よそ見してたからかな。普段はそんなことはないんだけれど。
そう思いながら、今度はきちんと目線を落として作業を続けた。慎重になりすぎたのか、いつもの倍くらい時間が掛かった。
後から思えば、この時に気付くべきだったのだ。
* * *
朝、週一で作ることにしているお弁当のために野菜を切る。普段はなんでもない、じゃがいもの皮むきができない。でこぼこになったじゃがいもをゆでるのにも失敗する。
会社に入る。営業の仕事がないので今日は一日パソコンに向かう。頭の動きにキータッチがついていかない。ブラインドタッチは中学生の頃に覚えたのに、まったく指が見当違いのところを叩いてしまう。
昼、なんとか作ったぼろぼろのお弁当を食べようとする。お箸をうまく持つことができない。それどころか、気を抜くと握り箸で食べようとすらしてしまう。頭がそう考えているわけではない、気付けば手がそうやって握っているのだ。そしてもちろん、その結果としてぽろぽろ無惨に落としてしまう。
コピーを取る。いつもなら片手間で簡単にスミが合わせられるのに、出てきたコピー用紙は角がずれている失敗作だった。慌てて止めようにも、気づいたときにはもう遅い。紙を四百枚無駄にした。
そして夜。なんとか仕事を終え――それもいつもの仕事量を定時を越えた時間に終えて――なんとか私は家に帰った。ふう、と息をつく。
今日は調子が悪かったんだろう。その厄を落とす意味も兼ねて、冷たい水で顔を洗う。その時目に入った私の両手は、本当に美しかった。真っ白で、美形で。
……あれ、この手の形、そういえばなんだっけ。
もう一度手を見る。そこにあるのは綺麗な綺麗な私の手だった。よし、明日もがんばろう。この手があるなら頑張れる。
* * *
だけど、その次の日も、その次の次の日も、私の手は私の言うことを聞いてはくれなかった。なんとか騙し騙し生活していたが、そのツケは当然やってくる。
ざくっ。
鈍い音が鳴る。それと同時に、この白い手のどこにそんなに入っていたのかというほどの血が溢れてきた。まな板の上で左手の中指を切ったのだ。その瞬間はあまり痛みがない、ああ、切ったなぁ、と思ったくらいである。
「いたっ!」
そして、ありえないことに、左手を切ったことにびっくりして包丁を取り落とし、その時に右手の平も切ってしまった。なんだ、どうやったらこんなに器用に切れるんだ。手相が一本増えたじゃないか。
どくどくどく、と切った指が波打つ。手の平からはぽたぽたと血が落ちる。そして両方とも水に濡れているからひりひりする。血の量ほどは深く切らなかったのか、ひりひりする程度で済んだのは幸いだったんだろう。私は手近にあった布巾をとっさに掴み、それを両手に挟むようにして傷口を押さえて、救急箱のある居間へと走った。普段あまり怪我をしないので、救急箱は戸棚の奥にある。ああ、こんなことならもっと出しやすいところに置いておくべきだった。
痛む手を使ってなんとか救急箱を出す。布巾はどんどん真っ赤になっていく。箱を開けて消毒液を探す。そこにはいわゆるマキロンみたいな吹き付けるタイプのものではなく、ビンに入った消毒用エタノールしか入っていなかった。ああそうか、いつだったか、前に使ったときに買い置きしておかなきゃと思ってたんだ。そう思ってももう遅い。あるだけマシだ。ガーゼと一緒にそれを出し、そのままその場に座り込む。
左手の四本の指でビンの横を掴み、右手の五本の指でビンの蓋を回す。痛みがあるからか、焦っているからか、なかなかビンは開かない。こうして頭で焦っていると思っている時点で冷静なのか、それとも冷静になろうとして焦っているのかはわからないけど、とにかく開かない。ああもう、どくどく言う左手がまどろっこしい。
ビンが血まみれになったころ、きゅぽん、とまぬけな音がしてビンが開いた。よし、まずは血が多く出てる左手、そっちを止血しないと。そう思って、ガーゼに手を伸ばす。まずはビンを少し傾けて、ガーゼにしみこませて……
その瞬間。
ビンが空中で一回転したのが見えた。
「――――ッ!」
両腕を刺すような痛みが襲う。パリン、とものが割れる音。手を滑らせて、盛大に消毒液をまき散らし、それが私の両手に降りかかったのだ。水に濡れたのとは比べものにならない痛みが走る。私は傷口を確かめようとして手を見下ろした。消毒液で洗われたのか、あれだけ赤かった手が真っ白に戻っている。
そう、真っ白に。指は長く長く、爪は整い、何処までも綺麗な手がそこにある。切った傷口すらも白く、その切れ込みの入り方すら美しい。
その瞬間、思ってしまった。
ああ、この手は違う。私の手じゃない。それどころか、日常生活を送るものではない。この美しさは偽物だ。使うことを想定されていない、見栄えだけのマネキンの手だ。そうか、そうだったのか。それじゃあ、上手く動かないのも当然だ。
またすぐに血はあふれ出した。
私は、呆然とそれを見るしかなかった。
* * *
「おや、どうしたんだい」
そして、私はここに来ていた。会えるという確証はなかったが、何故か確信があったのだ。その大きな木の下には、同じ姿でその人が立っていた。
その人が引いているのはリヤカー。そこに積まれているのは、いっぱいの、手首。
「これ、不良品だったんです。だから、返します。それで、返して下さい」
そう言って、手に巻いている包帯を外す。綺麗な綺麗な手が、そこにあった。けど、よく見ると両手の傷口は化膿し、そのせいなのかどうなのか、他の指にもささくれが目立ち始めている。だけど、そんな中でもこの手は美しいのだ。怖いほどに。
「そう言われてもねぇ」
こちらを見ようとはしないまま、しわがれた声が返ってくる。けど、私は淡々と続ける。
「ひどいじゃないですか。こんな使えない手を渡すなんて」
「手に使える使えないもあるのかい? きちんと指も揃ってるだろうに」
茶化すような声が返ってくる。
「……とにかく、これ、返します。だから、私の手を返して下さい」
「あんな手をかい?」
「あんなってなんですか、あれでも私の大切な手なんですよ」
何の気無しに言った言葉だった。
だけど、それを聞いて、その人は跳ねるように振り返り。
「けど、それを手放して、今の手を選んだのはあんたじゃないか。それも、とてもとても嬉しそうに、簡単に本当の自分の手を手放して、ね」
その表情を見たとき、ひゅ、と、胸に何かが差し込まれたような気がした。反論しようとしても声が出ない。
「あんなに丈夫で器用な手は滅多にないよ。それなのに、あんたは簡単に手放した。自分の良さも分かってないのに、自分にない部分ばかりを求めていたんじゃないのかい?」
ま、知った事じゃないけどね。その人はにたぁ、と笑ったまま、そう言うのだ。その顔を見て、私は。
「……返して下さい。私の、手を」
こう言うしかなかった。
「あんたは金を持ってなかった、だから、今の手と交換、そう言ったのは覚えてるね」
にたぁ、と笑ったまま、その人は続ける。
「売り物と交換ってことはだ、どういう意味か分かるね?」
その目線の意味がやっとわかった。この人は私がどう言うかを分かっていたのだ。
「お金なら持ってます! 今日は持ってますから! どうか売ってください! お願いします!」
その笑みから、答えは分かっている。けど、それを信じたくはない。だから私は必死に声を出し、懇願する。返して下さい。お願いします。売ってください。お願いします。
「ないよ。あんないい手って言ったろう。もう、他の人間にくっつけちまった」
そして、その人はにたぁ、と口の端をつり上げるのだ。
だから。
――だから私は、手首を売っていた。
* * *
その人が言うには、私と同じ事を言ってくる人はけっこう多いらしい。みんな最後には自分の手が良かったと言う、と。
「簡単なことだよ。だから、あんたはあんたの手が返ってくるのを待てばいい。私の代わりにコレを引いてね」
くい、と顎の先で大きな木の下に止めてあるリヤカーを指し、続ける。
「あんたの手はどこだったか、たしかほくろが右と左で同じ場所にあったね。誰につけたのか覚えてないが、それを持った奴が返品してくるのを待てばいいんじゃないかね。なぁに、あんたもすぐに私のところに来ただろう、だからきっと戻ってくるさ」
もう、私は従うしかなかった。一刻も早く手を返して欲しい、そのためには何だってする。
傷のせいで痛みが走り、動きづらい手をリヤカーの取っ手にかける。
「おっと、その手じゃ引きづらいだろう。ほら、やるよ」
ぽん、とその人が着けていた、赤黒い軍手が投げられた。受け取り、手に着け、リヤカーを押す。きぃ、と音が鳴る。
「それじゃあ、上手くいくように祈ってるよ」
おかしくてたまらない、そんな表情でその人はそう言うと、ゆらゆらと身体を揺らしながら、木の下を出て道を歩いていった。私はその人の反対方向に歩を進めるべく、リヤカーを回そうとする。
「ま、頑張りな」
そう言って、おどけるように両手を挙げる。軍手を外したその人の、初めて見る手。
その両手の同じ位置、小指の付け根には、小さなほくろが見えた気がした。