5.飛空船の青年
(2016.4.10)一部修正
(2019.2.14)一部修正
エアはためらいながら数歩近づき、青年を観察した。
丈の長い上着が背中で枝と絡んでしまい、身動きがとれなくなっているようだ。
けれどそれにしては、青年にはいまひとつ差し迫って困っている様子がない。緑の瞳には明るい光が踊り、状況を面白がっているようにすら見える。
エアは用心深く口を開いた。
「手伝うって──、あなたがそこから下りるのを手助けしろってこと?」
「うん、できれば。ほら、俺がこのままここから動けなくて、日干しになって死んだりしたら、君だって後味悪いだろ?」
まるっきり冗談のように言う。
エアは眉をよせて青年を見上げた。
「……あなた、墜落した飛空船に乗ってた人でしょう。どうしてこんなところにいるの? 滞在は許されたでしょうけど、自由に庭内を歩いていいわけじゃないはずだよ。そう言われなかった?」
「えぇ? そんなこと言われたかなあ」
青年は素知らぬ顔で首をかしげたが、エアがじっと見つめると、きまり悪そうに青年は咳払いした。
「そうだったかもね。……だけど、ちょっと散歩するくらい、いいだろ。大目に見てよ」
頭上におおいかぶさる瑞々しい若葉の枝を見上げて目を細める。
「すごいよねえ、ここは。空気が緑のにおいがする。地上ではこんな場所、とても考えられないよ。飛空船で外からこの《女神の庭》を見たときも、現実離れした夢みたいな場所だと思ったけど、実際に下りてみると実感するよ」
思いがけず深い感慨のこもった声音に、エアはちょっとたじろいだ。
昼間見た、地上の乾ききって寂れた光景を思い出して、なんとなく落ち着かない気分になる。
気をとりなおして青年をにらむ。
「だからって、こんな奥まで入りこむ必要はないでしょう。もし見つかったら、即地上に叩き出されてもおかしくないって、わかってる?」
「あれ、そうなの? だけど俺、ここに来るまで、誰にも止められなかったよ」
(──嘘だ)
そんなはずはない。
遅まきながら、エアは気づいた。
神使だって、この奥庭に立入ることができるのは一部の者に限られているのだ。今日、飛空船で降ってきたばかりの部外者が入りこもうとして、止められないわけがない。
特に今夜は、いつも以上に神使や神兵が行き来している。彼らに見咎められずに偶然迷いこむなんて、あり得ない。それにもかかわらず、この青年がここにいるということは、
(神使や神兵の目を盗んで、忍びこんだってこと?)
そうとしか考えられない。
「あなた、目的は何?」
きつい口調になったエアに、青年がきょとんとする。
「え? だから、散歩だって──」
「嘘だわ。この奥庭は特に警備が厳重だもの。それに、今夜はいつもより大勢の神使や神兵が出ているから、普通に歩いていたら行き会わないはずない。もし見つかっていたら、彼らがあなたを通すはずないよ」
エアは青年をにらんだまま後じさった。
「忍びこむつもりで、よほどうまく神使たちから隠れてきたのでないかぎり、部外者がこんな奥までたどり着けるはずない。──答えて。何が目的なの?」
「うーん、おしえてもいいけど──」
青年がいたずらっぽく瞳をまたたかせる。
「その前に、ここから下りるのを手伝ってくれる?」
エアは息を吸いこんだ。こぶしを握り、怒りをおさえる。
だめだ。完全になめられている。
幸い、逃げられる心配はなさそうだから、このままエアが問い詰めるより、神使か神兵を呼んできて問いただしてもらったほうが手っ取り早そうだ。
「あれ、どこ行くの?」
きびすを返したエアの背中を、青年の声が追いかけてくる。
「え、ねえ、ちょっと待ってよ。まだ話の途中だって」
無視してずんずん歩を進める。
神使長補のヨランドに禁じられてしまったが、できればなんとか許可をもらって、飛空船の乗員たちと話してみたいと思っていた。彼らの滞在を許すよう神使たちに主張したのも、そんな思いがあったからなのに、こんなふざけた青年だったなんて、がっかりだ。
けれど、
「──マイアを探してたんだ」
青年の言葉に、一拍おいてエアは息を止めた。
(わたし──?)
思わずふりむいたエアの視線をとらえて、青年がかるく口の端を上げる。
「君たちが奉じる女神さま、ここにいるんだろ? 彼女に会いに来たんだ」
「なぜ──」
無意識にもれた声は頼りなくかすれた。呼吸を落ち着け、唇を湿して言いなおす。
「なぜ、マイアに会いたいの?」
「言ったら、会わせてくれる?」
「……っ、そんなこと言ってないよ」
言い返してから、気がつく。この青年は、エアがマイアだとは知らない。
考えてみれば当然だった。
今、エアが着ているのは、ほかの神使たちと同じ簡素な神衣だ。
昼間、マイアとして華やかに装ったところも見られているが、ほんの一瞬だったし、遠目だったから、もしかしたら、昇降艇の上にいたのが、今目の前にいる少女であることにも気づいていないかもしれない。
ちょっと気持ちが楽になり、エアは背すじを伸ばして青年に向きなおった。
「ただ質問してるだけ。あなた、何のためにマイアに会いたいの?」
「言ったら、助けてくれる?」
「答えないなら、神使を呼んでくるわ」
ついでに歩きだすそぶりを見せると、青年は両手を上げた。
「──待って、わかった。言うよ。……君、けっこう意地悪だね」
(この人に言われたくないんですけど……)
むっとなったエアを面白そうに見下ろして、青年が口を開く。
「マイアに伝えたいんだ。約束を果たしてくれ、ってね」
「約束……?」
エアはまばたいた。
いったい何のことだ?
大急ぎで記憶を探るが、思い当たるものはない。
「約束って、いったいどんな?」
「うーん、おしえてもいいけど……。そのかわり、マイアに会わせてくれる?」
エアは顔をしかめた。こんな得体の知れない青年に、自分がマイアだ、などと名乗れるわけがない。
「そんなこと、できるわけないよ」
「じゃあ、俺もおしえられないなぁ」
エアは眉をひそめた。余裕めいた青年の態度に、ひとつの疑いが浮かぶ。
「……もしかしてあなたたち、ここに墜落したのはわざと? 飛空船の故障って、嘘だったんじゃないの?」
だが、口にしてからそのバカバカしさに気がついた。
マイアに用があるなら、正面から訪ねてくればいいだけのことだ。墜落だの飛空船の故障だのと、嘘をつく必要などまったくない。
けれど、青年はかるく目をみはってにやりとした。
「へえ、意外とするどいね」
(え……?)
「そのとおり。墜落じゃなくて、わざと突っ込んだんだ」
「なっ……!」
「――って言ったら、どうする?」
(……は?)
よほどおかしな顔をしていたのか、青年がふきだす。
エアは眉を吊り上げた。
「ふざけないで。どっちなの?」
もし、わざと飛空船を衝突させたのなら、許せない。
「あなたたちのせいで、七区の林はめちゃくちゃだよ。ほかにもあちこち崩れたりひっくり返ったりして、ひどいことになってるし。それに、ぶつかった場所によっては、最悪の場合、庭ごと落ちてたかもしれないんだよ?」
「ごめん、怒らないでよ。迷惑をかけたことは申し訳なかったと思ってるって。それに、船の調子が悪かったのは本当だよ」
(「船の調子が悪かった」のは本当……。墜落も本当だったとは言わないのね)
神使の言葉を思い出す。
――追い剥ぎや強盗をはたらく本当に凶悪で危険な連中も――
(もしかしてわたし、この《女神の庭》にとんでもない人たちを呼びこんでしまったんじゃ……)
青ざめたエアに、青年が苦笑する。
「そんな怖い顔しないでよ。大丈夫。俺たち、悪さをしたりしないって。ただマイアに会いたいだけなんだ」
「何のために……?」
「だから、マイアに約束を果たしてもらうためだって。マイアに会って、約束の履行を頼みたいんだ」
「そんなの嘘」
エアは、きっと青年をにらみつけた。
「適当なことを言ってごまかそうとしたってだめだよ。約束なんて、そんなものあるわけない。だって、わた……、マイアは、今まであなたに会ったことなんかないもの」
「ひどいなあ、嘘じゃないよ。こっちには、先代マイア直筆の証文もある」
(え……?)
エアはまばたいた。
先代マイア──ルドゥーテ。エアの一代前の生まれ変わり。
「先代が──マイア・ルドゥーテが、あなたと何か約束したって言うの?」
歴代マイアのはなしは、様々な遺業から日常の逸話まで数え切れないほど聞かされてきた。けれど、そんなはなしは今まで一度も聞いたことがない。
「正確に言うなら、俺たち、かな」
「いったい――」
どういうことだ。マイア・ルドゥーテは何を約束したのか。
エアがそう尋ねようとしたとき、木立のむこうから声が聞こえてきた。
「──さま、──エアさま。どちらにいらっしゃいますか?」
スワニーの声だ。
エアが自室に戻っていないことに気づいて、探しに来たのだろうか。
エアは枝の上の青年を見上げた。
この青年がここにいるところを見つかったら、きっと大騒ぎになる。
奥庭に忍びこみ、(当人は気づいていないとはいえ、)神使の許しもなくマイアに近づいたのだ。飛空船の青年たちは、問答無用で《女神の庭》を追い出されるだろう。
ためらったのは一瞬だった。エアはきゅっとくちびるを結ぶと、青年が引っかかっている木にかけよった。
幹をよじのぼり、彼が座りこんでいる枝に近づく。
「あれ、助けてくれるの?」
「しぃっ、黙って……!」
枝に絡んだ青年の上着をほどきにかかる。
「こんなところにいるのを見つかったら、どんな話もまともに聞いてもらえないよ。さっきのはなし、本当だって言うなら、こんなふうにこそこそしないで、ちゃんと正規の手続きを踏んでマイアに伝えて」
力をこめて枝をたわませながら、上着を繰り返し引っ張ると、数回目で勢いよくはずれた。その拍子に、青年が体勢を崩して地面にずり落ちる。
「っ痛ってー!」
「静かに! 早く行って!」
枝からすべり下り、小声で青年をうながす。
「さっきのはなし、必ず神使に伝えて。あなたたちの面倒をみてくれる神使が、誰かあてがわれているでしょう? あなたの言うことが本当なら、ちゃんとマイアまで取り次いでくれるはずだから」
「──エアさま? そちらにいらっしゃいますか?」
スワニーの声が近づいてくる。
早く、と青年の背中を押しやった腕を、反対にとられた。
「君、名前は?」
「は?」
「名前、おしえてよ。せっかく知り合いになったんだからさ」
何を悠長なことを言っているのか。
エアは焦って声のほうをふりむいた。もうスワニーの足音がそこまで近づいてきている。
「エアさま──?」
青年がちらりと声のほうに目をやる。
「エアって君の名前? あれ、もしかして君を探してるの?」
「いいから、早く行って――」
エアは言葉を途切らせた。
肩にこぼれた黒い髪の一房を、青年の手がすくう。緑の瞳が間近できらめき、髪の先に口づける。
(なっ……!)
「ありがと、エア。恩にきるよ」
硬直したエアの反応を楽しむように口もとに笑みをひらめかせると、青年は身をひるがえした。
暗がりの中に姿が消え、後を追って銀灰色の猫もかけ去る。
(なんて奴……っ!)
くちびるをわななかせて見送ったエアは、ふと木の根元にちかりと光るものを見つけた。
(ガラス……?)
てのひらにおさまるほどの大きさのガラスの円盤が落ちていた。
拾い上げて眺める。
端に一か所、小さな穴があいていて、細い組紐が通っている。大ぶりのペンダントのようだ。
あの青年の落とし物だろうか。
(バカね。こんな物を落としていったりしたら、忍びこんだのがバレちゃうじゃない)
「エアさま!」
背後から呼ばれて、エアは飛び上がった。
ガサガサと下草を踏みわけて、木立の中からスワニーがあらわれた。
「探しましたよ。なんでこんなところにいらっしゃるんですか」
「う、うん、ごめん……」
ペンダントを握った手を、そっと袖の中に隠す。
「誰かいませんでした? 話し声が聞こえたようでしたけど……?」
「え? ええと──、そう、猫がいたの。銀色の、すごくきれいな猫!」
ごめん、スワニー、と心の中で手をあわせる。
スワニーがため息をつく。
「心配しましたよ。お部屋にうかがったら、いらっしゃらないんですもん。ラベルさまみたいに口うるさいこと言いたくないですけど、ちゃんと寝ておかないと、明日つらいんじゃないですか? 昼間、居眠りなんかしたら、またラベルさまに叱られますよ」
「う……、わかってる」
心臓がばくばく鳴っているのを悟られないよう、懸命に平静をよそおって、回廊のほうへ歩きだす。
手の中には、ひんやり冷たいガラスの円盤がある。
(……マイア・ルドゥーテの約束)
青年が本当のことを言っていたとは限らない。本当のことだったとしても、約束の中身はごく個人的なつまらない事柄かもしれない。けれど、もしマイア・ルドゥーテが、本当に証文まで作って何かを約束していたのなら。
(知りたい……!)
自分でも戸惑うほどの強い欲求が、胸の奥からわきあがってくる。
それを知ることで何かが変わる気がするのだ。
記憶も神力も戻らない現状や、満足にマイアとしての役割を果たせない自分の不甲斐なさをかみしめる日々が。
後からついてくるスワニーに見られないよう、手の中に隠した円盤をエアは強く握りしめた。
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