4.月下の遭遇
(2016.4.10)一部微修正
(2019.2.14)一部修正
威勢よくスワニーと別れたエアだったが、部屋へ戻る道すがら、まわりに人影がなくなると、思わずため息をついた。
先ほどの若い神使の度を超した緊張ぶりは、けっこう衝撃だった。
彼女のことを、よほど雲の上の存在だと思っているのだろうか。
エアを見つめた若い神使のまなざしがよみがえる。畏敬と尊崇と、ほんの少しの怯えが入り混じった目。
(……だけど、あんなふうに見られる資格、わたしにあるのかな)
いまだにマイアとしての記憶も神力もあらわすことができない。会議の席では、ただ座っているだけ。口を開いても役に立つようなことはろくに言えず、神使たちにあしらわれてしまう。
自分たちが担ぐマイアのこんな実態を知ったら、あの神使は、そして昼間エアの姿に熱狂していた町の人たちは、どう思うだろう。
今日、何度目かのため息をつく。
やはり今日は、いくぶん落ちこみぎみかもしれなかった。
居室が入る棟の近くまで戻ってきたときだった。
とぼとぼと回廊を歩いていたエアの少し先の地面を、何かがすばやく横切った。
ぎくりとして足を止める。
(な、何、今の……?)
一瞬だったからよく見えなかったが、白っぽい影だったような気がする。
(ネズミにしては大きかったよね。ウサギかな)
庭園では、植物の生育のために、あえて様々な小動物や昆虫を放している。
小さな影は、回廊を横切って中庭のほうへかけぬけていった。
小走りに近づき、暗がりをすかし見て──エアはまばたいた。
(猫……?)
白っぽい灰色の毛並のほっそりした猫が、中庭の繁みを二、三歩入ったところで、すまし顔でこちらをふりむいている。
(わぁ、きれいなコ……)
鼻づらから額にかけてが黒っぽく、賢そうな眼は黄色に光っている。
庭園で数匹飼っているのは知っていたが、この猫は今まで見たことがなかった。
銀灰の毛並が月明かりを浴びてけぶるように輝く。
やわらかそうな毛に触れてみたくなり、エアは回廊のふちにしゃがみこんだ。そうっと片手を差し出す。
「おまえ、はじめて見るね。最近拾われたの?」
庭園に放される生き物は、ここで生まれるものもいるが、神使が地上から連れてくることもある。
目の前の猫は成猫のようだが、子猫の頃から庭園にいたのなら、今までに見かけていそうなものだ。神使が新たに持ちこんだ猫かもしれない。
銀灰色の猫はエアを見つめて、近づいてきそうなそぶりを見せたが、途中でふいっと身をひるがえした。
(あっ……)
繁みの中をてんてんと数歩進み、再びエアをふりむく。
(生意気。わたしがついて来るか、試してるみたい)
ちょっと楽しくなって、思わず中庭に踏み出す。
寄り道するなというスワニーの言葉が一瞬頭をよぎったが、
(寄り道じゃないよ。部屋に戻るには、中庭をつっきったほうが近道だもの)
誰にともなく言い訳して、繁みの中に踏み入った。
中庭は背の高い木が鬱蒼と枝を広げ、ちょっとした雑木林のようになっている。
枝の隙間から差しこむかすかな月明かりをたよりに、前を進む小さな白い影を追う。
濃い草の臭いをかぎながら下生えを踏んで進むうちに、だんだん懐かしくなってきた。
子どもの頃はよくラベルたちの目を盗み、探検と称して繁みの中にもぐりこんで遊んだものだ。
女神の生まれ変わりとして神使たちにかしずかれ、年の近い遊び相手のいなかったエアにとって、お気に入りの一人遊びのひとつだった。
(……あれっ?)
気がつくと、いつの間にか猫の姿が消えていた。ちょっと注意をそらした間に見失ってしまったようだ。
(やだ、せっかくここまで追ってきたのに。どこにいっちゃったんだろう……?)
あたりを見回したときだった。
「おまえね、どこ行ってたんだよ」
ふいにひそめた声が降ってきて、エアはぎょっとなった。
まったく気がつかなかったが、近くに人がいたのか。
「俺が困ってるのを放りだして優雅に散歩かい。薄情な奴だな。頼むからおとなしくしててくれよ、見つかったらまずいんだから」
どうやらエアに話しかけているわけではなさそうだ。
声の調子からすると、若者のようだ。
なんとなく息をひそめて声の主を探したエアは、少し離れた木の上に人影を見つけた。
黒い影が太い枝に片膝をたててまたがり、幹にもたれている。
(誰……? 花木担当の神使?)
だが、樹木の手入れをしているふうではない。そもそも、こんな夜中にそんなことをするはずがない。
そうっと足音を忍ばせて、枝の上の姿が見える位置にまわりこむ。
月の光を避けるように枝葉の陰に身をひそめていたのは、エアよりいくらか年上とおぼしき青年だった。
膝の上にあの銀灰色の猫がのっている。
青年の姿にどこか違和感を感じたエアだったが、ふいに気がついた。彼が着ている服が神衣ではないのだ。
(この人……!)
わずかな月明かりの下でもそれとわかる、明るい色の髪。昼間、墜落した飛空船からはい出てきた青年に間違いない。
同時に、気配を感じたのか、視線をめぐらせた青年と目があう。
見つめあったまま、互いにしばし沈黙する。
「……あー、やあ。こんばんは」
(……っ!)
エアは反射的に半歩後じさり、するどく息を吸いこんだ。
「ちょっと待った! 待って、──待ってください」
慌てた様子で青年が言う。エアが声を上げようとしたのを察したらしい。
「警戒しないで。大きな声は出さないでくれるかな。──大丈夫、怪しい者じゃないから」
どこがだ。どう見ても怪しいところしかない。
言い返そうとして、エアは青年のやけに不自然な体勢に気がついた。
幹にもたれているのではなく、ややそりかえるように幹に縫い止められている。
どうやら服の背中が、幹のそばの短い枝にからまってしまっているらしい。
(何をしたら、あんなややこしいことになるの……)
エアの視線に気づいて、青年がきまり悪そうにせきばらいする。
「……ええと、見てのとおり、動けないんだ。できれば大事にしたくないから、人は呼ばないで。申し訳ないんだけど、ちょっと手伝ってくれないかな」
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