2.女神の憂鬱
大広間を出たエアは、背後で閉まった扉をやや複雑な思いで見やった。
扉のむこうでは、神使たちの協議が続いている。けれどエアは、これ以上はつきあわなくてよいからと部屋から出されてしまったのだった。
ラベルにうながされて回廊を歩きだしたが、もやもやした気分は消えなかった。
(わたし、一応、当代のマイアなんだけどな……)
たしかに、協議の場にいたところで、何か判断できるわけではないし、役に立つ意見を言えるわけでもないけれど。
(それに、奥庭から出るな、なんて……!)
それでは、この一件から締め出されたも同然ではないか。
むっつり歩いていたエアは、回廊の先から軽快な足音が近づいてくるのに気がついた。肩の上で切りそろえた栗色の髪をゆらして、若い女性の神使が跳ねるようにかけてくる。
「エアさま!」
かけよってきた神使は、抱きつく勢いでエアの両手をとった。ラベルと同じ、マイア付き神使のスワニーだ。
「スワニー! よかった、無事だったんだね」
「もちろんですよ。あら、もしかして心配してくださいました?」
いたずらっぽく瞳をきらめかせる神使を、エアはかるくにらんだ。
「あたりまえだよ。船が墜落したとき、すごくゆれたでしょう。大丈夫だった?」
「ええ、まあ。多少びっくりしましたけど、あたしはちょうど外にいたので、あんまり危ない目にはあわずにすみました。建物の中にいた子たちは、棚が倒れたり物が落ちたりして、けっこう怖かったみたいですけど。幸い、誰もケガはしなかったみたいですが」
いったん言葉を切り、スワニーは少し声を落とした。
「落ちたのって、隊商船なんですよね。乗組員を捕まえたって聞きましたけど、本当ですか?」
「うん。船に乗ってたのは三人だって。船の故障で墜落したみたい。船の修理がすむか、次の巡見の街に到着するまで、ここにおいてあげることになったよ」
えぇー、とスワニーは顔をしかめた。
「甘いですっ。そんな親切にしてやる必要ありませんよ。とっとと地上に放り出してやればいいんです」
エアは苦笑した。
「スワニーったら。園芸班と同じこと言ってる」
「建物の中の惨状を見たら、エアさまだって、絶対に同じことをおっしゃいますよ。棚は倒れるわ、物は落ちて散らばるわで、ものすごい状態なんですから。あれを全部もとどおりにすることを考えたら、気が遠くなります」
「───で、その片づけをサボって、こんなところでおまえは何をしてるんだ?」
ラベルの冷ややかな問いに、スワニーはつんとあごをそびやかした。
「サボってません。あたしは、エアさまに用があるんです。───実は片づけていて、すごいものを見つけたんですよ。ぜひエアさまにお見せしたくて。ほらっ!」
スワニーはポケットから得意げに茶色の小瓶を取り出してみせた。小瓶の中で、黒っぽい小さな欠片がカラカラ鳴る。
「なあに、……種?」
「ふっふっふっ、ただの種じゃありませんよ。なんと先代マイアが手ずから採取した花の種です!」
エアはちょっと息をのんだ。
「本当に……?」
「ほら、ここ見てください。先代マイアの名前が書いてありますでしょ?」
たしかに、年月を経てやや黄ばんだ付箋には、流れるような筆跡で日付や植物名と並んで『マイア・ルドゥーテ 採取』とある。
「保管庫の棚の奥から出てきたんです。先代のゆかりの物って珍しいでしょう? あまり残ってないですものね」
先代マイア、ルドゥーテ。エアの一代前の生まれ変わりだ。
エアはまじまじと付箋の文字をながめた。
エアの書く文字とはまったく似ていない。繊細で品格のある手跡からは、優美でたおやかな姿が想像される。
「ね、エアさま。この種でちょっと試してみませんか?」
茶色の瞳にのぞきこまれ、とっさにエアは返答につまった。
スワニーが何を試そうと言っているのかは、考えるまでもなくわかった。けれど、すぐにはうなずくことができなかった。
女神マイアの生まれ変わりは、誕生のときからその身に二つの証をそなえているといわれている。
一つは記憶。生まれ変わりは、地上に水と緑をもたらした女神マイアと、その生まれ変わりである歴代のマイアたちすべての記憶をもって、この世に生まれてくるという。
そして、もう一つは神力だ。生まれ変わりは、女神マイアがその身におびていた神の力を受け継いで生まれてくるという。歴代のマイアたちは、手を伸べるだけで種を発芽させ、固く閉じた花のつぼみを開かせることができたらしい。
過去に存在した生まれ変わりのマイアたちは、一人の例外もなく、皆この二つの証をそなえていたらしい、のだが───
期待のこもったスワニーの視線を受けとめきれず、エアは目をふせた。
エアは今のところ、この二つの証のどちらも発現させることができずにいるのだった。
神力は五歳のときに一度、バラの花を咲かせたことがあるだけ。記憶にいたっては、女神マイアのものも、歴代の生まれ変わりたちのそれも、何一つ思い出すことができずにいる。
神使たちは折にふれて、歴代マイアの愛用品を見せてくれたり、逸話を聞かせてくれたりして、エアに神力や記憶を取り戻させようとはたらきかけてくれる。けれど、残念ながら現在にいたるまで、成果は現れていなかった。
「先代マイアが集めた種ですもの。これなら、うまくいきそうな気がしません? この種ならきっと、エアさまにこたえて芽を出してくれますよ」
「そう……かなあ……」
あまり確信がもてないのだけれど。
神力の発現については、植物の種やつぼみを使って、今まで数え切れないほど試してきた。歴代マイアにゆかりのある種や苗を使ったことも、何度もある。けれど、一度としてうまくいったためしはないのだ。
「今回はうまくいくかもしれないじゃないですか。試してみなくちゃ、わかりませんよ。それに、次に巡見する街では、観衆を集めてエアさまが神力を見せる計画があるそうじゃないですか」
エアはえっ、と目をみはった。
「何それ。聞いてない」
「スワニー」
ラベルが苦い調子で口をはさむ。
「そういう提案があったというだけだろう。よけいなことをエアに聞かせるな」
エアは引きつった顔でラベルを見上げた。
「ねえ、神力を見せるって……」
「お忘れください。催事担当の神使たちが勝手に言っているだけですから、気にする必要はありません。そもそもあなたの神力が発現しなければ、実施しようのない計画ですし。だいたい、そんなことを神使長が許可するはずがありません。マイアの神力は、そんなふうに軽々しく見せびらかしてよいものではありませんから」
「あら、そうでしょうか」
スワニーがきゅっと眉をよせてラベルを見た。
「見せびらかすものではないという意見には賛同しますけど、あたしは、もっと広く誰もがマイアに接する機会をつくるべきだと思います。三か月後の披露式では、エアさまが当代マイアとして各国に正式に紹介されることですし、今後《神護院》はもっと積極的に、マイアと一般の人たちの橋渡しをする方法を考えるべきじゃありませんか?」
「だとしても、方向性や方法を慎重に検討したうえで進めるべきだろう。いきなり次の巡見で神力を見せるなんて、計画とすら呼べないだろうが。おまえ、そんな雑な思いつきに、エアをつきあわせるつもりか?」
「あらぁ、今日の巡見で、いきなりエアさまを引っ張り出した方の言うこととは思えないですねえ」
スワニーが腰に両手をあてて、ラベルをにらむ。
「聞きましたよ。ろくな準備も事前の説明もなしに、エアさまを町の人たちの前に出したそうじゃないですか。無事にすんだからよかったですけど、興奮した群衆の目の前にエアさまを出したりして、危害を加えられるようなことがあったら、どうするつもりだったんです?」
「安全を確信できたから、姿を見せていただいたんだ。それに、ああした場合の対応も、警護の神兵と申し合わせてあった。庭園で留守番していたおまえにあれこれ言われるような手抜かりはない」
「あたしに留守番を命じたのはラベルさまじゃないですか! あたしはエアさまにお供したいって、何度も言ったのに」
きっ、とスワニーがエアをふりむく。
「エアさま、次の巡見は絶対、絶対あたしもご一緒しますからねっ。ラベルさまの横暴からお守りしますから!」
「えーと、うん、ありがとう」
できれば、かわりに留守番していたいなぁと思ったが、言葉にするのはやめておく。
苦々しい顔をしているラベルが口を開く前に、エアは急いで話題を変えた。
「スワニー、その瓶貸して。試してみるから」
スワニーがぱっと顔を明るくして、はいっ、と小瓶を差し出す。
眉をよせるラベルを目顔でなだめ、エアは小瓶の栓を抜いた。
うまくいかなかったときのがっかりした気持ちを思い出して、反射的につい躊躇してしまうけれど、試すこと自体が嫌なわけではない。エアだって、どうにかして神力をとり戻したいと、切実に願っているのだ。
てのひらにざらりと種をあける。
黒や濃い茶色の粒。先代マイアが触れたというが、特別なところは見あたらない。ごく普通の種に見える。
ふたをするようにもう一方の手をのせて、ひとつ深呼吸して目を閉じる。
以前に教わったとおり、種の表皮が割れて薄緑色の芽が出る様子をイメージする。
(……お願い、芽を出して……)
───一分、───二分………。
薄目を開けて、そっと手をひらく。
ころんとした小さな種に変化はない。
「もうちょっと待ってみましょ」
スワニーの言葉にうなずき、もう一度手を閉じる。
重ねたてのひらにさっきより力をこめて、一心に念じる。
───三分、──四分………。
再び手をひらき───、エアはため息をついた。
「……やっぱりダメみたい」
乾いた黒っぽい種には、わずかな変化も見られない。
スワニーがしゅんとなる。
「すみません……。先代が集めた種なら、もしかしたらって思ったんですけど……」
「うん……、そうだよね……」
それほど期待していたわけではなかったが、実際に失敗してみるとやはり落胆は大きかった。
種を指先で転がし、小瓶に戻しながら、エアはぼんやり考えた。
どうすればこの身に記憶と神力をとり戻すことができるのだろう。
今まで、考えられるかぎりのことを試してきた。
記録にある限りでは、歴代マイアの中に、生まれ変わりの証をあらわすのにこれほど苦労した娘はいないようだ。歴代の彼女たちとエアとで、いったい何が違うのだろう。
「ちなみに、この瓶を見ては何か思い出しません?」
「スワニー、いいかげんにしろ」
ラベルがきつい口調になる。
エアはもう一度注意深く小瓶をながめた。
何の変哲もない、庭園でよく使われている保存瓶だ。
付箋の文字にも、特によみがえるものは───ない。記憶どころか、漠然とした感情の動きさえも。
「ごめんね。せっかく見つけてくれたんだけど、やっぱり何も思い出せないや」
そうですか………、とスワニーがしょんぼりする。
「エアが謝ることではありませんよ」
肩をすくめてラベルが言う。
「焦ることはありません。時がくれば、いずれ記憶も神力も戻ります」
エアはちょっとまばたいた。
普段、慰めなど口にしない青年なのに、珍しいこともあるものだ。
口調はそっけないが、ちょっと救われた気分になる。
「そう……かな、そう思う……?」
「ええ。それより、今はマイアにふさわしい知識と教養を身につけることに力を注ぐべきかと」
エアは頬を引きつらせた。
「……ああ、そういうはなしになるんだ?」
「当然です。さあ、さっさと戻って勉強しますよ。今日は古典語と神護院史の続きをしましょう」
「その前に、図書室の片づけですね」
スワニーがおどけてエアの背中を押す。
「あの本の山をなんとかしないと、必要な辞書や歴史書を探すことさえできませんよ。エアさま、手伝ってくださいます?」
スワニーの気遣いを感じて、エアは微笑んだ。
「うん、いいよ」
「さすが、エアさま。そうこなくては! 当然、ラベルさまも手伝ってくださいますよね? ──さあ、行きますよ!」