12.道しるべをたどって
厨房では、賄方の神使たちが昼食の準備の真っ最中だった。
湯気のたつ大鍋や調理台の間を、前掛けをつけた大勢の神使がひっきりなしに動きまわっている。昼時がせまる中、なんとか調理を間に合わせようと皆殺気立っていて、戸口に立ったエアに誰も気づかない。
(みんな、ごめんっ!)
エアはそうっとすみの調理台に近づくと、置いてあった籠からパンを二つとハムの小さなかたまりを取り出して、手早くふきんに包んだ。それから、棚に並んでいた水差しの一つに水を満たして、ふきんの包みと一緒にそばにあったバケツに入れて持ち出す。
バケツを下げて林に戻る間中、バケツの中身や行先について誰かに問いただされたらどうしようかと気が気でなかったが、幸い誰にも見とがめられずにすんだ。
けれど、もとの場所に戻ってみると、すでにそこに少年の姿はなかった。
(もしかして、逃げちゃった?)
周辺を歩いてまわるが、人影は見あたらない。銀灰色の猫もいなくなっている。
(せっかく食べ物を持ってきたのに……)
彼を捕まえに、神使や神兵が駆けつけてくるとでも思ったのだろうか。
誰にも話さないと言ったのに、エアの言葉は信用してもらえなかったのか。
高揚していた気持ちが、しゅんとしぼむ。同時に、ふと我に返ったような気持ちになる。
(……あたし、何やってるんだろう)
庭内に潜んでいた部外者を見つけたのに、誰にも報告せず、それどころかその部外者のために厨房から食糧を盗むなんて。
ラベルの声が耳によみがえる。
――当代マイアともあろう方が――
(……またやっちゃった……かも)
今朝がた叱られたばかりだというのに。今度こそ心底呆れられてしまうだろうか。
記憶や神力が戻らないなら、せめてほかの部分ではマイアの名前にふさわしくありたいといつも思っているのに、どうしてこうなってしまうのだろう。
バケツを見下ろしてため息をついたエアは、足元の下草に黒っぽい飛沫がわずかに散っているのに気がついた。
明るい緑色の小さな葉に、ごく細かいしずくが点々とついている。
ちょっと気になって、ためしに指でぬぐうと、赤黒い汚れがついてきた。
どきりとする。
(これって、血……?)
まだ乾ききっていない。今しがたついたばかりの血痕ということか。だが、いったい誰の(何の)血だ?
庭園に放されている鳥や小動物のものならよいが、
(まさか、あの男の子の血じゃないよね)
先ほどもみあったときは、お互い多少叩いたりひっかいたりしたが、血を流すような傷は負わなかったはずだ。
あらためて注意深くあたりを見回すと、地面や下草に踏み荒らされた跡がある。
一部は先ほどエアと少年が争ったときについたものだろうが、いくつかの足跡は明らかに二人のものではなかった。
もっと足が大きく、体重も重い何者か。それも、一人ではない。足跡がついている範囲や重なり具合からして、三、四人分ありそうだ。
(この足跡……。もしかして、神兵?)
尖ったつま先をもつ、かかとの深く沈んだ足跡は、神兵が履く長靴の跡のように見える。
もしや少年は逃げたのではなく、エアがいない間に神兵に見つかって、どこかへ連れていかれたのだろうか。
足跡は林の奥へ向かっているようだ。
エアはバケツを持ちなおし、急いで足跡をたどった。
足跡はところどころ途切れながら、林の中を続いている。
しばらく進むうちに、エアは首をかしげた。
足跡の主たちはどこへ向かっているのだろう。
少年を捕まえたのなら、庭の中央部にある神兵の詰所か執務棟あたりへ連れていきそうなものだが、足跡はどちらかというと外縁のほうへ向かっているようだ。
(あの子を連れていったわけじゃないのかな……?)
そういえば、先ほどの場所を離れてから、少年の足跡はまったく見ていない。
神兵たちが少年を連れていったのではと思ったのは、エアの早合点だったのだろうか。
さらに進むと林が途絶え、行く手にはちみつ色の壁があらわれた。《女神の庭》の外縁を取り囲む石の壁だ。
(あれ、こんなところまで来ちゃった)
壁の手前に、ドーム型の屋根をもつ石造りの建物がたっている。
女神マイアと歴代の生まれ変わりを祀る女神廟である。
女神廟は庭園の中央にも立派な堂宇があり、そちらは常にあふれるばかりの花で飾られているが、こちらは庭園の外れで、神使も神兵も普段はほとんど用がないため近づかない。
(あの子を捕まえたのだとしたら、こんなところに連れてくるわけないよねえ)
少年が神兵に捕まったと思ったのは、やはり間違いだったのか。
ちょっとほっとして、引き返そうときびすをかえしかけたとき、建物のそばで動くものが目に入った。
(え……?)
エアは大きくまばたいた。
建物の入り口の扉の前に猫がいる。あれは、あの銀灰色の猫ではないか。
(どうしてここにいるの?)
急いでかけよる。間違いない。たしかに先ほど、あの少年と一緒にいた猫だ。
近くで見ると、脇腹の毛が赤黒く汚れている。さらによく見ると、毛のすき間からピンク色の肉がのぞいていて、どうやら傷を負っているようだ。
「おまえ、そのケガどうしたの? ……もしかして、あの血っておまえの?」
銀灰色の猫は、そばにひざをついたエアに見向きもせず、後足で立ち上がって一心に扉をかいている。
「ここに入りたいの?」
扉を見上げて、エアは顔をしかめた。
ほとんど使われることがないとはいえ、神聖な廟だ。必要もないのに、やたらと動物を入れてよい場所ではない。
と、重いきしみをあげて内側から扉が開いた。
出てきた神兵が、しゃがみこんでいるエアを見て、ぎょっとした顔になる。
「マイア・エウフェミア? 何なさってるんですか、こんなところで」
「あ、え、ええと……」
驚いたのはエアも同じだった。
何と答えるべきかと迷い、とっさに目の前の猫を指さす。
「その、この猫が中に入りたそうにしてたから、ちょっと気になって。――あっ!」
銀灰色の猫が身をくねらせて、神兵の足の間をすりぬけ、扉の中へ駆けこんでいく。
「あっ、こいつ!」
神兵が慌てて猫を追う。
エアも神兵の後に続いて扉をくぐった。
石造りの建物の中は、ひんやりと肌寒かった。普段使われていない建物に特有の、かすかにほこりっぽい臭いがする。
室内はがらんとして薄暗く、高いところに開いたいくつかの小窓から光が差しこんでいる場所だけが白々と明るい。
「くそっ、どこへ行った」
神兵がぶつぶつと毒づきながら、室内を歩きまわる。
銀灰色の猫は、どこかすみの暗がりに潜りこんでしまったのか、姿が見えなくなっていた。
「そんなに荒っぽく足音をたててたら、怖がって出てこないよ。もっと優しく呼びかけなくちゃ」
そうですね、とぞんざいにうなずき、神兵がエアをふりかえる。
「マイアはどうぞお戻りください。あの猫はわたしが捕まえて外へ出しておきますから」
「いいよ。わたしも手伝う」
あの猫がケガをしていたことが気にかかる。少年と一緒にいたときまでは、あんな傷は負っていなかったはずだ。
バケツを置いて、エアは床にひざと手をついた。壁にそって進みながら、暗がりを透かし見る。
「おやめください! 汚れます」
「大丈夫、気にしないで」
「そういうわけには――」
神兵が苛立った様子で近づいてくる。
「マイア! 本当に結構ですから――」
四つん這いになっていたエアは、正面に立ちふさがった神兵に腕をとられて立ち上がらされた。慇懃だが、明らかに強引なふるまいに、ちょっと驚く。
そのとき、視界のはしに何かが映った。
「――待って」
やんわりと扉のほうへ連れていこうとする神兵をふりはらい、エアはそれをまじまじと見つめた。
祭壇のかげからのぞいているもの。だらりと横たわる二本の足。
「――マイア」
「どいて!」
神兵を押しのけ、祭壇をまわりこむ。
(――っ!)
石の床に細い手足を投げだして、あの茶色の髪の少年が仰向けに倒れていた。
薄明りの中でもそれとわかる青ざめた顔。両のまぶたは生気なく閉じていて、口はかすかに開いている。
つい先ほど、エアを突き刺すようなまなざしで睨んできたときとは、別人のように幼く、頼りなげだ。
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