プロローグ
毎週少しずつ続きを書いていきたいと思います。
(2016.1.29)誤字を修正。
(2016.4.10)一部修正。
(2019.2.6)一部修正
濃紺の礼服をまとった先触れの神使が人垣を割り、その後から神使や神兵を従えて真紅の輿が現れると、人々の間からどよめきがあがった。
屋根は深い紅色の天鵞絨。輿の進みにあわせて、ひさしの房飾りが重たげにゆれる。
黒光りする長柄をかついでいるのは、四人の屈強な神兵の男たちである。
輿のぐるりには薄絹のとばりがめぐらされ、乗っている人物の姿は見えない。
だが、集まった人々は、とばりのむこうにいるのが「マイア」の尊称で呼ばれる女神の生まれ変わりであることを知っていた。
女神マイア──その昔、神話の時代に、神々の庭園からひとすくいの水と一握りの苗を持ち出し、禁忌と知りながら地上に与えた神女。
禁忌を犯したことでほかの神々の怒りをかった女神は、罰として天上から放逐され、地上で人間とともに永遠に生と死を繰り返すことになった。
とばりのむこうにいるのは、地上で数え切れないほどの転生を繰り返し、今また人の体をもってよみがえった女神その人なのだ。
輿を一目見ようと──そして、できることならとばりの奥の女神の姿を垣間見たいと、人々が輿の周りに押しよせる。神使や神兵が輿を守るように立ちふさがると、いっせいに不満の声が上がり、神使たちと人々の間で押しあいになった。
人々のマイアを呼ぶ声が高まり──
そのとき、輿をおおっているとばりがゆれた。
薄絹の隙間から、ほんのり色づいた指先が現れる。輿のそばに控えていた神使が、すばやくかけよってその手をとった。
人々の間に息をのむ気配とともに沈黙が広がり、あたりが静まる。
大勢が息をつめて見守る中、とばりが持ち上がり、ほっそりした人影がすべり出た。
小柄な少女だった。
真紅の薄い衣装をまとい、艶やかな黒髪を高く結って背中に流している。
前髪を上げているため、かたちのよい額があらわで、卵型の顔の輪郭がよくわかる。すっきりとおった鼻梁に、やわらかな線を描く頬。
どこかはかなげな雰囲気があるが、それでいて決して弱々しくはない。
ひときわ大柄な神兵が進み出て、輿の前にひざをついた。
少女は神使に手をあずけたまま、体重を感じさせない身のこなしで、ひざまずいた神兵の肩に飛び移った。霞のような衣の長いすそが、少女を追ってふわりとひるがえる。
肩の上に少女をかついで、神兵が軽々と立ち上がる。
神兵の肩に蝶のようにとまった少女は、背筋を伸ばしてつと視線をめぐらせた。
長いまつ毛にふちどられた黒い瞳が、ゆるりと人々を見回す。
はにかみや怖気のない、凛とした表情。目をあわせた者の心の底までさらうような、深く澄んだまなざし。
と、ふいに目元がやわらぎ、薄紅色のくちびるがほころんだ。とたんに、少女がまとっていた厳かな雰囲気が溶け去り、親しみやすく華やいだ空気に変わる。
わあっと大きな歓声が上がる。
──マイア・エウフェミア。女神マイアの当代の生まれ変わり。
この日、彼女の微笑みを目にした人々は、一人残らずこの可憐な女神に恋をした。
* * *
「……はなしが違うんですけど!」
輿のまま乗りこんだ昇降艇の扉が閉まるなり、少女はとばりから顔を突き出して、かたわらに立つ神使の青年にくってかかった。
輿の担ぎ手の神兵たちはぎょっと身じろいだが、かみつかれた当人である神使のラベルはかるく眉をよせただけで動じなかった。
「何ですか、いきなり?」
「何ですか、じゃぁぁないわよっ。さっきのこと!」
少女は肩に落ちた髪をはらい、ラベルをにらんだ。
「聞いてた段取りと全然違うじゃない。今日のところはわたし、外に出なくていいはずじゃなかった? 輿に乗ってるだけでいいって、あなた言ったよねえ?」
女神マイアとその生まれ変わりを奉じる《神護院》。彼らは、女神によってもたらされた地上の水と緑を守ることを使命とし、女神の使いをもって任じている。
今日は、その《神護院》の神使による巡見だったのだ。
予定では、彼女はとばりの奥から巡見の様子をのぞくだけのはずだった。それなのに、
「どうしてあんなことになるのよ!」
「しかたがないでしょう。我々だって予想外でしたよ。こんな辺境の町で、まさかあれほど大勢の見物人が集まるとは」
言いながら、ラベルは昇降艇を出発させるよう手振りで指示をした。
かるいうなりをあげて、艇がおっとり動き出す。
神兵が輿を床に下ろすと、年少の童使が繻子の靴を持ってとんできた。
ラベルが靴を受けとり、輿の足もとにそろえて置く。
「それだけ、マイアによせられる期待が大きいということですよ。よかったですね、エア」
「……よくない」
マイア・エウフェミア───エアは、輿の上にうずくまったまま、青年を見上げてうなった。
「地上に下りるのだって初めてだったのに、いきなり引っ張り出すなんて、ひどいよ。もー緊張した! 心臓飛び出すかと思った!」
突然とばりごしにラベルから、今すぐ出てこいと呼ばれたのだ。まったく予想していなかったから、慌てたなどというものではなかった。
「おおげさな。あの程度のことにいちいち騒がないでください。あなたの披露式には各国の要人が大勢集まりますし、ほかにもこれから先、もっと大勢の前に出る機会だっていくらでもありますよ」
「わ、わかってるよ、そんなこと!」
エアは口をとがらせた。
「ただ、あんなふうにみんなの前に出なきゃいけなくなるかもしれないなら、ひとこと言っておいてほしかったって言ってるの。前もって心の準備ができてたら、もっとうまくやれたのに」
「それはどうでしょう。力み過ぎて、かえって失敗したんじゃありませんかね」
「そんなことないよっ」
はいはい、とラベルが肩をすくめて、隣室から顔を出した神使に手振りで指示をする。
「もうっ、ラベルってば、ちゃんと聞いてよ!」
「聞いてますよ。わかりました。次からは、前もってお伝えするように気をつけます。ですから、これ以上ごねるのはやめて、さっさとそこから下りてください。神兵たちが輿を片づけられなくて困ってます」
エアは頬をふくらませた。
エアが幼い頃から彼女の教育係を務め、今はマイア付の筆頭神使であるこの青年には、口で勝てたためしがない。
今も正当な抗議をしていたはずなのに、いつの間にか小言をもらっている。
けれど、そばで神兵が居心地悪そうにしているのは確かだったので、ひとまず言い返すのは我慢することにする。
深紅の靴を引っかけて、担ぎ手の神兵にねぎらいの声をかけて輿を離れる。
ラベルが隣室に続く扉へうながす。隣りは大きな窓がある展望室で、艇が昇降する間、座って待つことができるようになっていた。
たぶん温かいお茶とお菓子でも用意してあるのだろう。けれど、おとなしく従うのはしゃくだった。
ラベルを無視して、中央のはしご段へ向かう。
「エア? どこへ行くんですか。部屋はこちらですよ」
「わかってるよ。景色が見たいの」
「こちらの部屋から見たらいいでしょう。そのための展望室なんですから」
「外に出て見たいの。べつにいいでしょう?」
「まあ、あえてそうしたいなら止めませんが……。風が強いですよ?」
「わかってる。平気」
ぷいっと言ってはしご段を上り、はね戸を押し開ける。
とたんに冷たい風が吹きこんできた。
薄い衣の布を通して冷気が全身に伝わる。思った以上の寒さに、やっぱり部屋に戻ろうかと一瞬考えたが、意地が勝った。
円筒形をした昇降艇は、屋根の上が物見台になっている。物見の神兵の手を借りて屋上に上がる。
頭上に広がるのはよく晴れた空。空気はぴりりと冷たいが、日差しは暖かい。
へりに近づき、手すりからかるく身をのりだす。
眼下には、見渡すかぎり荒涼とした赤い大地が続いている。真下に小さく見えるのは、先ほどまで彼女たちが下りていた町だ。大地と同じ色をしたレンガの屋根が身をよせあうように集まっている。
身を抱くようにして腕をさすりながら地上を見下ろしていると、背後から声をかけられた。
「エア」
ふりむくと、ラベルが肩掛けを手に歩いてくる。
「寒いでしょう。その格好では風邪をひきます」
「そんなこと───」
言いかけたところで、たて続けにくしゃみが飛び出した。
ラベルが呆れ顔になる。
「言わんことじゃない。意地をはるのもほどほどにしてください」
厚手の肩掛けにひざ下まですっぽりつつまれる。
エアはややばつの悪い思いでやわらかな布にあごをうずめた。
「……ありがと」
ラベルは肩をすくめると、手すりのむこうに視線を向けた。
「ずいぶんと熱心にご覧になってるようでしたね。何か面白いものでもありましたか?」
「ううん、そういうわけじゃないんだけど……。このあたりが昔は草原だったなんて、とても信じられないなあと思って」
先ほど町を巡ったときに、案内にたった町の代表が言っていたのだ。八十年ほど前まで、この一帯は丈の高い草が風になびく草原だったらしい。
「八十年前というと───三代前のマイア・グラウカの時代ですか。マイア・グラウカはご存命の期間が長くていらしたから、それだけ広く植物が繁茂することができたのかもしれませんね」
女神マイアによって、それまで乾いた砂と岩の砂漠しか存在しなかった地上に、はじめて水と植物がもたらされた。
けれど、ほかの神々の怒りによってか、あるいはもたらされた水と植物が天上から盗み出されたものだったがゆえか、それは永続的なものにはならなかった。女神マイアが死ぬと、しだいに水脈は細り、緑は消えていったのだ。
その後、マイアが転生をとげたことで再び水と緑はよみがえったが、以来、マイアの死と転生にあわせて、地上の水と緑も減衰と回復を繰り返している。
当代マイアであるエアには、今後、歴代マイアたちと同様に大地を水と緑で潤すに違いないという大きな期待がかけられている、らしいのだが。
(そう言われてもねえ……)
エアはこっそりため息をついた。
(わたしに、本当にそんなことできるのかな)
手すりにもたれた少女の上に影が落ちる。エアは頭上をあおいだ。
青空を背景に、はちみつ色の石の建造物が浮かんでいる。
石の壁に囲まれた空に浮かぶ庭園──《女神の庭》。
《神護院》の本拠であり、エアが五歳のときから暮らしている場所だ。
瑞々しい緑色の葉を繁らせた梢が、壁を越えてこぼれている。
(あそこには、あんなに緑があふれているのに……)
「そろそろ中に入りませんか。まもなく到着しますよ」
「うん──」
きびすを返しかけて、エアは庭園のむこうを飛んでいる赤銅色の影に気がついた。
甲虫に似た、ずんぐりと丸っこい形の飛空船だ。
「隊商船ですね」
エアの視線をたどったラベルが眉をひそめる。
「行商の連中の船ですよ。たいてい複数の船で集団で行動しているんですが──。一機きりで飛んでいるのは珍しいですね。仲間とはぐれたんでしょうか」
「なんだか様子が変じゃない?」
言い終わらないうちに、赤銅色の船はぼふんと鈍い爆発音とともに黒い煙を噴き出した。制御を失ったように、つかの間激しく迷走したかと思うと、きりもみしながら庭園に近づいていく。
エアは息をのんだ。
「危ない──!」
飛空船が庭園のかげに消え、すぐにどぉんと腹に響く衝突音がした。はちみつ色の壁に囲まれた庭園が大きくゆれる。
「ぶつかった!」
物見の神兵がはね戸を開けて事態を告げると、数人の神使や神兵がはしご段をかけ上がってきた。
昇降艇がゆっくり上昇するのを、エアは神使たちとともに手すりにかじりついてじりじりしながら待った。
《女神の庭》には、二千人をこえる神使や神兵がいる。もしあの飛空船が、大勢が集まっている場所、たとえば執務棟の上などに落ちていたら──
(みんな、お願い無事でいて……!)
昇降艇は庭園のはちみつ色の外壁をなでるように上昇した。
上昇するにつれて、慌ただしい物音や怒号らしき声がかすかに聞こえてきた。当然のことながら、庭の中はたいへんな騒ぎになっているようだ。
庭園の上空にさしかかったところで、ラベルは昇降艇を停止させた。
石の壁に囲まれた庭園は、中央に高い塔をもつ堂舎がそびえ、周囲におもむきの異なる庭が広がるひし形のコマのようなかたちをしている。
エアは手すりからのりだして庭園を眺めわたした。
見たところ、建物に大きな被害はないようだ。炎や煙が出ている様子もない。
「ラベル、あそこ!」
エアは庭の一隅を指さした。
淡い色の葉をつけた若い林で、穴があいたように一部の梢がなくなっている。
昇降艇が近づくと、無残なありさまが明らかになった。巨大な爪にひっかかれでもしたように、木々が根こそぎえぐられて、薄緑色の林の中に一筋黒い線が走っている。そして、その太い筋の先に半ば地面にめりこんで、甲虫の死骸のように赤銅色の飛空船が転がっていた。
船から漏れたらしい油のにおいが、エアたちがいるところまで濃くただよってきている。
目を凝らすが、船の周囲に神使や神兵の姿は見えない。《神護院》側の人間は、墜落に巻きこまれずにすんだのだろうか。
木々の間をぬって、神使や神兵が墜落した船を探してかけてくる。
「乗ってる人がいるはずだよね。大丈夫かな……」
墜落した船は完全に横倒しになっている。庭園にぶつかる前には勢いよく旋回していたし、乗員は少なからずケガをしているのではないだろうか。
(あっ……)
そのとき、船体の一部が内側からはじけるように開き、人影がはい出てきた。
体格からして、まだ若い青年のようだ。明るい金色の髪が目をひく。
(よかった。ひどいケガはなさそう)
青年は周囲を見回すと、身をかがめて船内に何事か呼びかけた。それから、腕をのばして大きく伸びをし、上空の昇降艇に気がついた。
瞳の色まではわからないが、エアは青年のまなざしがまっすぐこちらへ向けられるのを感じた。そして、
(笑った──?)
エアは大きくまばたいた。
この状況で笑った? けれど、確かに口角を持ち上げて、青年は不敵に笑ったのだ。
「──ア、──エア?」
「は、はい? 何?」
急いでラベルをふりむく。
「どうやら戻って問題なさそうですから、昇降艇を船着きにまわします。中へ入って、降りる準備をしてください。……言っておきますが、たいへんな事態なんですからね?」
「わ、わかってるよ!」
「でしたら、そのわくわくした顔をなんとかしてください」
エアはむっとなった。
まったく不本意な言われようだ。
乗員の安否を心配しているし、やっと育ってきた若い林が荒らされたことに憤慨している。一歩間違えれば、神使や神兵が大勢巻きこまれた大事故になったかもしれないことを、大いに恐ろしく思ってもいるのに。
手すりを離れる前に、もう一度庭園に目を向ける。
続々と神使や神兵がかけつけ、飛空船をとり囲んでいる。
先ほどの青年は神兵に拘束されたようだ。さらに、神兵たちの動きから察するに、船内にはほかにも乗員がいるらしい。
(だけど、こんなこと初めて)
本当のことを言うと、嵐の到来を前にしたときのように胸が騒ぐものも感じている。
そんなことを思うエアは、ちょっとだけだけれど、やはりわくわくしていると言えるかもしれなかった。